日本

更に考える

宗教学者の堀 一郎氏が曾て、神道研究国際会議「近代化と神道」の部会にペーパー参加した米国加州大学ロバート・N・ベラ教授の発言を著書の中で紹介している。

「一般に日本人は最も多く外来文化を借用して成長してきたといわれるが、しかしある見方からすると、日本人は他の国民ほど他国の文化を借用しなかったとさえもいえいるのだ。どれが固有文化でどれが借用文化だという記憶を、強くながく持ちつづけている社会は、日本以外そう多くは存在しない。広い意味での「日本的なるもの」(漠然とした意味での「神道的なるもの」)と外来文化的なるものとの差別は、日本では強く意識されている。その上、外来文化を一つの手段として取り扱う傾向さえあった。実用的な目的にかなうものは、手軽に採用されるが、一度状況がかわると苦もなく捨てられてしまう。抽象的哲学的な立場でさえ例外とはいえず、輸入された外来文化に献身的に取り組んだ少数の人人でさえ、その哲学、宗教、ないし芸術上の立場は『神道化』され勝ちであった。つまりこういう立場をめぐって結集された新しい集団に対しても、グループ・アイデンティティなる個別主義的基礎を供給していた。極言すればマルクス主義者やキリスト教信者の団体でさえ、こうして神道化されてきたののである。」

西欧の人間はソクラテスがギリシャ人であろうがキリストがユダヤ人であろうが、良いものであれば、外来のものを取り入れる事にさほど躊躇しない。 かたや日本人は、本音と建前を使い分け表面上は何区別無く受入れている様に見せながら、頑に我流を押し通そうとするのである。

東北大学に曾て在籍した、ドイツの哲学者カール・レヴィット氏は著書の中でヨーロッパ的特性をかくも明解に述べている。

「絶え間なき危機を通しての前進、科学的精神、決然たる思考と行為、不愉快なことでも直截に原表すること、(他人を論理的)帰結の前に引きすえたり、みずから(論理的)帰結を引き出したりすること、そして就中、自己を端的に他から区別する個性、これらすべてのヨーロッパ的特性も、そうした批判という能力と密接な関係を有する。実際、何事にあずかろうと(何事をわかとうと)、みずからは常に『個体』即ちわかつことのできないものたる人間のみが、およそ、自分と神、自分と世界、自分とその民族或は国家、自分と人間、自分と自分自身の『厭うべき我』(パスカル)、真と偽、諾と否を、かくも強烈に、的確に区別し決定する能力を有する。」

「それ故、ヨーロッパ的精神の対照をなすものは、何かと言えば、境界をぼかしてしまう気分の中でする生活、人間と自然界の関係に於ける感情のみに基づいた、従って相反を含まない統一、両親、家庭及び国家への批判を抜きにした拘束、自己の内面、自己の弱点を露わさないこと、論理的帰結の回避、人間との交際における妥協、一般に通用する風習への因習的服従、万事仲介による間接的な形式、等である」

この本が翻訳され出版されたのは昭和二十三年であり、偶然にもちょうど筆者が生まれた年でもある。 残念ながら五十年経った今でも一部を除いて充分当て嵌まるものばかりである。 只、これは近代文明を語ったものではないし、優越した立場からの解釈であり当然かも知れないが、表現が「ヨーロッパ的特性」或は「ヨーロッパ精神」となっていて、近代文明の特性を客観的に分析している訳では無い。 西欧の人間にとって近代文明=西洋文明の等式は当然の事であり、逆から言えば、そこから近代の普遍的特性を分析し抽出出来るのは外の人間とも言えるのである。

阿部氏は前掲の書の中で下記の様にも述べている。

「インテリ諸公のなかには日本の個人はまだ不十分であり、したがって個人を確立しなければならないと簡単におっしゃる人がいますが、個人の確立とはどういうことを意味するのかということを突き詰めて考えますと、一つの線はヨーロッパ的な個人をつくれということになります。」

「私はそれは不可能だと思っています。不可能という意味は、ヨーロッパでは先程言いましたように十二世紀頃から個人が生まれ、これは最終的にはキリスト教というものを根底に置いている。そこにかかわっている様々な伝承などはルターの時代に古代的なものを全部払拭されて個人と神とのかかわりのなかで個人の位置が絶対化されていくという経験を経て、それが世俗化されて今日の個人になっているわけです。」

阿部氏は同じ書で、

「この状態を見て、学者の多くは日本が遅れていると思っているようですが、私はそうは思いません。遅れているとか進んでいるという問題ではなくて、質の違う文明、文化なのだと思います。ヨーロッパの個人は十二世紀に生まれたのです。」

とも述べている。

筆者はインテリでもない極普通の人間であるが、個の確立は非常に大切だと切実に思っており、簡単な事でない事も充分理解している積もりである。 阿部氏のような学者に、それは不可能であると言われてしまうと失望を隠し切れないが、筆者の言いたいのはこれからの国際社会で生きる為には個の確立は必須であり、何もヨーロッパ的な個人に固執している訳ではなく、近代文明の均質化に対応する為には、近代的個人という共通概念を共有する必要性をいずれにせよ余儀無くされるのではないかという事なのである。 筆者は基本的にヨーロッパ的な個も日本的な個も無いと思っている。 筆者が常に疑問に思うのは、世界が共通点を模索している時、日本人は違いを見付ける事に終始しているという事である。 阿部氏が「遅れているとか進んでいるという問題ではなくて、質の違う文明、文化なのだと思います。」と言われる事についても、文化の違いは充分理解出来るが、こと文明の違いについては納得の行かない時も多い。 と言うのも、文明の違いという観点から見れば、近代文明或いは西欧の文明という違う文明を取り入れているのも日本なのであり、比較の尺度を近代文明という一点に置けば、日本は後発であり、遅れていると言わざるを得ない部分も多々ある。 片や相対世界べったりで違いを見付ける事ばかりに終始する日本人像、もう片方に共通点で括ろうとする西洋人像、拡散と収斂という合い交わらない構図である。 これは死ぬ間際に迄相対世界に留まる日本人と、生まれてすぐ絶対世界に足を踏み入れる西洋人の違いとも言える。

最近ベスト・セラーになった「文明の衝突」の中でも、著者のサミュエル・ハンチントン氏は以下の様に述べている。

「西欧文化の普遍主義の空疎さと世界の文化の多様性という現実は、必然的かつ不可逆的に道徳と文化の相対主義を招くのだろうか?普遍主義が帝国主義を自分の子供として認めるとすれば、相対主義は抑制を自分の子供として認めるのだろうか?くどいようだが、この問にたいする答はイエスであり、ノーである。文化は相対的であり、道徳は絶対なのだ。」〈中略〉

「人間社会は『人間のものであるがゆえに普遍的であり、社会であるから特殊なのである。』ときとして、われわれは肩を並べて行進する。ほとんどの場合、われわれは自分たちだけで行進する。それでも『わずかな』最小限の道徳観は人間に共通する状況から生まれるもので、人間の『普遍的な性質』はあらゆる文化に見出される。ある文明の普遍的と目される特質を助長するかわりに、文化の共存に必須であるとして求められるのは、ほとんどの文明に共通な部分を追求することである。多文明的な世界にあって建設的な進路は、普遍主義を放棄して多様性を受け入れ、共通性を追求することである。」

これは世界の趨勢が、今迄の押し付ける普遍主義から真の普遍主義を模索する姿勢に移りつつある事を如実に表していて興味深く、同時に、未だに普遍性追求姿勢が生じる気配すら見えない日本の遅れを感じさせられるものでもある。 極言すれば日本人は死んで大人になり、西洋人は生まれてすぐ大人になるという事である。 これが一般の社会だけでなく学問の世界にも見られる事、つまり先生も現役の時は建前論を生徒たちに教え、一度現役を退くと考える時間が増えて、「結局人間は解らない」と気が付く、これでは悪循環を繰り返すばかりである。

阿部氏は前掲の書の中で、

「日本では本当の意味でどういう時に大人になるかというと、私が周りの学生を見てきた経験では、親と子の関係のなかで子供が親に見切りをつけた時に大人になるのだと思います。」

と述べているが、筆者の場合は、大人になり切らない自分の両親を見切るのに、二十年弱掛かってしまい、結果的に、親を見切ると同時に、「世間」に迄見切りを付ける結果に陥ってしまったのである。 と言うのは、未だ両親供健在の内に、親より先に子供が大人になるという事が、如何に大変なエネルギーを要するかという事なのである。

子供達は、親や先生は何でも自分より分かっているものと思い込んで成人し、それが裏切られるとすごく傷付くものであり、親の個が確立されていない家庭で、子供の個の確立を期待するのは非常に難しいのである。 この、死んで初めて大人になるというところに、日本人の「甘えの構造」があると同時に、これが、普遍性追求姿勢の欠如、つまり違いばかり見付け共通項で括るという事に対する弱さ、ひいては科学の基本である「要素還元」あるいはロジックの基本とも言える「因数分解」に対する弱さをひき起こしてしまうのである。 違いばかり見付けていると何も纏まらない。何も纏まらないという事は収斂の方向に持っていけないという事である。 それは「ムラ社会」=「世間」=「甘えの構造」という殻が個人を被っているからであり、個人が自分自身に沈潜する事を疎外しているからである。所謂一方通行なのである。片方の途が塞がれているとどうしてももう一方の途に集中するしかないのであり、収斂する途が閉ざされていると拡散するしかないという結果を生むのである。かくして日本は「普遍性の追求」という途を閉ざされているのである。

阿部氏も同書で更に次の様に述べている。

「ヨーロッパにおいては中世の早い時期に聖と俗の分離が進行しました。俗が自由に闊歩しうる道が開かれたことはその後のヨーロッパの近代化を促進する要因になりましたが、中世の末から近代にかけて疾病の流行によって多くの死者を出した一つの原因であったと思われます。したがって、わが国でも聖と俗の分離が外見上は急速に進んだ明治以降にさまざまな疾病が流行したのだと考えれるわけです。」

「現在、私たちは「世間」という観念を相対化しなければならない状況にあります。「世間」のなかに個が縛られている状況を脱却しなければいけないと私は考えていますが、しかしそれと同時に、「世間」が持っていたかつての公共性的機能を失うことなく保持することができるかどうかも大問題です。そういう過去の遺産を無視し、明治以降の一方の近代化論者が主張してきたように、ヨーロッパ的な近代的個人をつくるということはかつての「世間」のような聖なるものを排除して近代的個人をつくるということになるわけで、伝統的な価値は失われるわけです。」

柳田國男が「群の制裁」という言葉で表現した様に、阿部氏の言われる世間の公共的機能がかつては存在していたと思われる。 然し筆者にはそれが聖俗未分離の時代と同じ様に現在も機能しているとは到底思えないし、戦後柳田國男が社会科教育に「世間」教育を取入れようとした時には既に手遅れであったのであり、たとえそれが実現されていたとしても現在通用するとも思えない。 筆者の執筆の動機そのものが、阿部氏が同じ書のなかで「これは基本的には建前でしかない教えで、そのためには日本の子供たちは大変苦労して今日に至っているわけです。」と明治以降の教育についてコメントされている事によるものだからである。 前にも書いたが、筆者の疑問の始まりは、大学教師である父親に対して「○×式」に対する質問を発して答えて貰えなかった事に在り、阿部氏が同じ書の中で、

「建前というものと知恵とは別な問題で、知恵を働かせろと言うわけでありますが、日本の教育はそれを一切教えなかった。だから、多少差し障りがありますが、私の教えた学生たちのなかで小学校の教師を両親に持っている生徒は大変苦労をしました。」

「小学校の教師は建前を学校で説くのですが、それは真面目な教師ほど家のなかでもやろうとする。これは実際上は不可能です。」〈中略〉「そこから近代日本の親子の苦労が始まっているわけで、そういう例はいくらでも見ることができますが、わが国の個人が生きていくうえでの指針をかつては「世間」が与えて来た。そして、「世間」に対して背を向けてはいけないことを教え、個人の生き方を縛ってきたと言えるのです。」

と述べられているのを読むと、まるで自分の事を言われている様な気がして実に悲しくなるのである。 その上別のところで、

「『世間』と戦って死んだ人もいるのです。それから『世間』と戦いながらうまくやった人もいます。そのためにはどうすべきか。これは能力がないとできません。」

と言われているに至っては能力のない自分には実に残酷に響くのである。 筆者の執筆の動機そのものが、前にも書いた通り「受けた教育の内容と実際の社会との齟齬に如何に悩まされたか」に在り、今回の試みを自分でも「自分探しの旅」と位置付けている位であるのでこれ位の衝撃は覚悟はしていたが、五十を過ぎてから知らなかったのは自分だけというのもなんとも侘びしい限りである。 筆者の場合はそれが三代続いている特殊な環境なので一般論にはなりようも無いが、学問の目的がいやしくも「真理の探究」であると言うのであれば、少なくとも学問の世界に於ては「始原の追求」を含む「真理の探究」をする姿勢が欲しいものである。 それが望めないのならば、矢張り前にも書いた、「真理の探究」を「悟りへの道」、「個の確立」を「覚醒への道」と変える位の意気込みが欲しいのである。 逆から言えば、この姿勢無くして「真理の探究」という言葉を安易に使用すべきではないとも言えるのである。 今回阿部氏の引用にこれだけ紙面を割いた理由は、当初阿部氏の「『世間』とは何か」を読んで筆者の言いたかった事を学者が取り上げている事を素直に喜び、その同じ口から「私はそれは不可能だと思っています。」という言葉が出る事等予測すら出来なかったからである。

筆者の疑問の始まりは自分の親を含む学者が、退官してからでないと「本音」を出さないという事にもあったのであり、これは柳田國男が、

「学者は今まで、めったに判らないと答えた人がいなかった。だから現在知っているだけの事実のみによって、さしあたりの答を作るのであった。人を欺くまでの悪意はないにしても、少なくとも自ら欺いていたことは、古来の学説の瞬間も休まずに、次々と改訂せられて来たのを見ても明らかである。口にするさえも情けない「日本はなぜ敗れたか」、もしくはどうして今日のごとき状態に陥ってしまったか、答はここにあるという人がいくらあろうとも、今までお互いがまるっきり心づかなかったことがこれほどあり、まだこれからも次々とあらわれて来そうな形勢に直面しては、とうてい私たちはそのでき合の答を受け取って、さようでしたかと言っている気にはなれない。」

と言っている事にも通じるのである。

筆者は、日本が世界で生き残る途は、この個人を包み込んでいる「本音」と「建前」を使い分けて護り続けた「ムラ社会」=「甘えの構造」を取払い「個の確立」を急ぐ以外に無いと考えている。 「神道」=「ムラ社会」=「世間」という「甘えの構造」は、「安心欲求」、「帰属欲求」の両方を満たす役割を担っていた。これは個が確立される前の、卵、蛹、或いは繭の様なものである。 これが存在する限り、一億総モラトリアムの時代は続く。一人前とは言えないのである。今日本は「世間」システムから「社会」システムに変換するインキュベーター(孵化器)を必要としている。 今日本に必要なのはスピリチュアル・ビッグバンである。 マクロ・コスモスは自分の力で見付けるものなのであり、スペース・シャトルに乗せて貰って喜んでいる場合ではない。  巷ではコンピューター学校と英会話学校が盛んであり、皆まるで国際性がコンピューターと英会話さえ学べば身に付くと信じている様子である。 よく日本の文化はオンラインでなくオフラインであると言われる、これは果してコンピューターと英語だけの問題だろうか。 この二つはあく迄も道具であり、使っている人間がオフラインではいくら頑張ってもオンラインにはならない。 常に「世間」システムから「社会」システムに変換している状況が続く限り、日本の文化のオンライン化は出来ないのである。  筆者は、オンラインの社会とは最小構成単位である個人が確立された社会であり、各々が思考回路の短絡を取り去り、各々覚醒して近代文明の仕組である「個」から「全」への循環システムを理解する事が要求される社会であると考えている。  日本人が本音と建前を使い分けるというのは、世間と社会の問題に限った事ではない。 これは日本人が情緒的であり、自分を客観視する事が得意でないという処に端的に現れている。 本音は主観性の強い部分で、建前は客観性の強い部分であり、主観と客観を分けるという事は、客観視出来ないのではなく、したくないという事を表している。

誰しも他人に内面に入り込まれるのは好まない、これを敢えて自分自身の力で眼を内面に向けるところに、自分を客観視する意味が存在し、この眼を内に向ける事が、「自分」を相対化して「個人」を導き出すという個の確立につながる唯一の道なのである。 言うなれば、初めから建前が本音であれば問題の生じる事も無く、主観を限り無く客観に近付ける様に、本音を限り無く建前に近付ける努力をすれば良い事である。 この努力を怠っている限り、理念と実践の齟齬は免れない。 つまり、言っている事とやっている事が食い違ってしまうのである。

柳田國男は民俗学を自己内部省察の学問 であると定義している。この内部省察、所謂「内省」が日本人の一番苦手とするところであり、柳田國男が正確に理解されていないと筆者が感じるのは、この根本的なところに原因があると思われるのである。 それは、精神性(善及び美)を統御する真(論理)の欠如にあり、柳田國男は真の立場を明確にし、真が善及び美を統御する日本独自の真・善・美を構築しようとしたのである。 それは、内省こそが善と美をコントロール出来る唯一の手立てと気付いていたからである。 然し乍ら、彼はそれを直観的或いは体験的にに知っていたのであって、論理的に解明していた訳ではなかった。 精神性(善・美)が真をも支配してしまうメンタリティー(精神性)は、内省が不得手であるというメンタリティー(思考回路)から生じる現象であり、「善と美はナショナルなものであって、真のみがインタナショナルなものである。」19 と、内部省察の学問を説いた柳田の真意すら汲み取れなかったのであり、彼は「民俗学の退廃を悲しむ」という講演を最後に民俗学研究所を解散してしまったのである。 彼はあく迄も、日常生活から湧き出る疑問を学問に反映させる事を考え、昨日・今日・明日のサイクルを史心・内省・実験というより積極的なものに置き換える事により、過去・現在・未来を正確に把握し、衣食住が真善美に反映する事を望んだのである。

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