パラダイムシフト

自分学

自分を知る事

学問は自分を知る第一歩である。 全ての現象を自分に投影する事により初めて本当の自分が判る。 個人的な問題を更に普遍的な問題に迄に発展させ再び個人に戻してみる、この作業が自分を見付ける最短距離である。所謂自分を客観視、或いは相対化する事である。 その時点で自分が何を望んでいるかが浮き彫りになって来る。

自分を知る為には先ず頭の中を整理しなくてはならない。それには事実をありのままに見られる様になる事が肝要である。 全ての偏見を捨て、感情のヴェールを拭い去らなくてはならない。 少なくとも事実を把握する時だけでも感情を別の部屋に閉じ込めておかなくてはならない。 その為には心を鍛えておく必要がある。感情のヴェールが掛かると、時に事実が曲がってしまう事がある。 所謂色眼鏡をかけてものを見るとかバイヤスが掛かってしまうとか様々な言葉で言われ続けている事である。 限りなく普遍的な事実を掴んだ後で初めて自分の考えが入り込む余地が出て来る。 これが本来の個性というものであり自由裁量である。 その時最後迄残った自分の考えを大事にする事が重要なのであり、自分のしたい事、すべき事が浮き彫りになって出て来るのである。

ここで肝心なのが「個人」の自由と「自分」の自由の違いを明確に区別出来る判断力であり、これが自分を客観視するという事である。 たとえ最初の出発点が非常に低次元のものであっても、その事を限りなく普遍的なレベルに迄高めてみる事により、単なる低次元レベルのものとして解決出来ないものに迄昇華させる事が重要なのである。 この情報が氾濫する世の中で一つ言える事は、身体を鍛えるのも大切だが、同時に心を鍛える事も大事であるという事である。 情報に流されないで生きる術を身につけていないと、結局すべて自分に災いが降り掛って来てしまい、判断を誤る原因になる。

人間は非常に傷付き易い動物である。 「自分学」の難しさもこの傷付き易さにある。 人間の意識は常に顕在化しているとは限らず、自分を傷つけない為に潜在化している事も多い。 誰しも他人の事は良く判るが自分の事は判らないとか気が付かないという経験を持っていると思うが、自分を客観視するという事は非常に辛い作業でもある。 然し乍らこれが出来ないと物事を公平に判断する能力が身に付かないのである。 これは戒めとして常に持っていないとすぐに忘れてしまうもので、一筋縄では行かない難物である。 極端に言えば、これさえ解決出来れば人間にまつわる問題の90パーセントは解決したも同じかも知れない。

右脳と左脳を使い分ける事とか、知性と感性のバランスをとる事とかよく言われるが、これが簡単そうでいて難しい。 物事を判断する時この事は非常に重要であり、訓練を怠る事は出来ない。 それには先ず前述した感情のヴェールを取り払う作業が必要であり、これが一番厄介な代物である。 例えば、「思い出すだけでも悔しい事」を只の「思い出すだけの事」にしてしまう作業である。 この「でも悔しい」という感情の面を取り去ってしまい、事実だけを整理しておくというのが、ここで言う頭の中を整理する事である。 これが記憶を記録にする作業である。

日本人は情緒的な国民であるとよく言われる。これは記憶と記録を兎角一緒にしてしまい論理的に物事を認識し論理の整合性を一義に考える近代的な思考方法を未だ会得していないとも言える。 これはひとえに、精神性(善・美)を統御する真(論理)の欠如によるものであり、それと裏腹に日本人は義理人情のあつい国民だとも言われる所以である。 時に長所である特徴も、この客観視という事に関しては短所になってしまう。 客観視するとは、自分を含む全ての事象を客観視する事が重要なのであって、自分だけはいつも蚊帳の外では困るのである。 日本の様に宇宙感(コスモロジー)が「全」対「個」に分解されていない社会は、個人の内省のチャンスが削がれ、普遍性追求の道は断たれてしまう。 先ずはこの内省を拒絶してしまうメンタリティーを克服し、自己矛盾を認めたくないが故に自己完結型の論理空間に籠る事から止めなければならない。

日本人が同じ日本人を批判的に観察するのは兎角自己矛盾を孕む恐れがある。 これは自分の家族を批判する事にも通じる。それは自分にも同じ血が通っているからである。 「本来人間はこうあるべきものだ」とか言われているものは大抵実践が非常に難しいもので、人は戒めとして頭に留めている事が多い。 つまり一度口から出ると客観も主観になってしまうからである。 当事者意識あるいは参画意識は常に持っている事は重要であり、これは何等自分をも含む世界を客観視する事の邪魔立てにはならない。 当事者意識の欠如はビジネスの世界で評論家といって嫌われ、政治の世界では投票率の低さに端的に現れるのである。 ビジネスに於て余り達観しているのは歓迎されないが、こと哲学となると達観しないと見える物も見えなくなってしまうのである。

誰でも真実を直視する事は辛いし、傷付きたくない為に心を偽っている事が多い。 それを敢えて見据える覚悟が無いとついつい自分を度外視してしまう事になり、事実を曲げてしまい自分をも客観視する事が出来ないのである。 この辛い作業も時には避けて通る事が出来ないのである。 人間誰でも全ての偏見を取り去る事は不可能に近い。これを訓練によって出来る限り取り除く事が重要なのである。 この作業を経て初めて自分を知る段階に近付けるのである。 昔から人は「他人の事は鏡だと思え」と言い伝えて来た。又大事なのは如何に相手を受け入れるかだとも言う。自分を客観視出来る様になると世界がクリヤーに見えて来るとも言う。 先ず自分を知る事により視界がクリヤーになり世界が良く見える様になれば後は簡単である。結局人間は皆同じなんだという事が判って来る。その時点で問題を自分に戻してやると、自分を責める事も無く、他人を責める事も無く、楽な気持で事実をありのままに受け入れる事が可能になって来る。 人は努力に努力を重ねて何かを成し遂げた途端謙虚になり、それは自分の力でなく何か大きな力が助けて呉れたのだと思う。

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