洋魂洋才の勧め

魂才一致の原則

柳田國男が「ヨーロッパではルネサンスが大きな仕事をして中世を壊している」と言ったように。

文明化とは如何に中世から脱却するかであり、聖(魂)と俗(才)を一致させる事である。 それには相対化し尽くして自由を獲得する事しかない。

西洋人は神の領域と渾然一体となった中世社会から脱却する為に絶対世界と相対世界を切り離した、それが聖俗分離(secularisation)である。

聖=魂、心、文化、非日常、総論、哲学

俗=才、身(物)、文明、日常、各論、科学

和魂洋才の弊害、魂才一致の原則

物心一如=聖俗未分離の日本人は和魂洋才により魂才一致を崩されてしまったのである。

「日本人は近代文明という危険な衣を無邪気にも身につけてしまった」とかつてお雇い外人教師が言ったそうだが、

「西洋人は一時的に心と身体を離すことにより近代文明ひいては科学を発達させたが、日本人は逆に近代文明により無理矢理心と身体を引き裂かれて一億総分裂症になった」 と筆者は今まで書いていた。

これが日本は近代化こそしたが文明化出来なかったと言う所以である。

以前も書いたが、

「最近になって日本人は近代文明を近代化と文明化と分けて考えている(いないの間違い?)のではないのかと思うに至った、日本は近代化は遂げたが、文明化は拒絶しているそれは和魂=文明、洋才=近代(和魂=中世、洋才=近代の間違い?)だからであると考えるとしっくり行くのである、然しながら日本が憲法の前文で人類普遍の原理と謳っている以上、辻褄が合わなくなるのは避けられない、何故ならば自由平等博愛の精神は全て普遍主義から生じているからなのである、文明化を拒絶して近代化だけを望みそのうえ基本的人権を期待するのは自己矛盾なのである、隣国中国を見れば納得が行くだろう。」 (用語の定義を多少修正させて頂いた。)

詰まり、和魂(心)は中世のままで洋才を取り入れたからに他ならない。

「私は学校にいる時分、外国の本で経済学を教えられた人間だが、今日に至るまでも実は本と自分の生活とが、はだはだになって繋ぎ合されぬのに困っている。」

と柳田國男もいみじくも述べている通り、

真善美(哲学)が衣食住(生活)に反映していない、

思想が外来の為思想と生活が一切関係ない、

学校で習った事が社会で通用しない、

皆同じである。

聖俗未分離=物心一如

市中の山居と引きこもり

現実逃避

以前、在宅=侘び=引きこもり=ホームステイなんて冗談を言っていた事があるが、市中の山居と引きこもりは現実逃避という意味では似ている、違いは聖俗出入自在の部分である。

1.室町時代は魂才一致の為に心身バランスが取れていた。 市中の山居、聖俗出入自在

2.和魂洋才になってバランスを崩し文化(心)に逃げ込んだ。

現実逃避

現実逃避しないで聖俗出入自在になるには、心身バランスを取る事だ。

日本人は近代文明により心身バランスを崩されて文化=心の世界に逃げ込む。

日本の心(和魂)は科学=要素還元主義に着いて行けなかったのだ。

詰まり、今では心身の鍛錬も、バラバラになりサーキットトレーニングで肉体の鍛錬だけになってしまったのだ。

室町時代は和魂和才で心身バランスが取れていた、ポイントは中世からの脱却にある。

中世は全世界聖俗未分離状態であり、相対化する事も無いので、自分=絶対=主観の世界しか無かった。

近代文明は自分を限りなく相対化して、個=1を括り出す事により発達した。

これを世俗化(secularisation)と呼ぶ。

イスラムは聖俗一致を唱え近代文明を拒絶し、日本は物心一如を唱え聖俗未分離のまま残った。

西洋だけが聖と俗を分離し近代文明を発達させた。

以前も書いたが、

「イスラム圏、自由諸国、社会主義国等人為とは思えない次元を超えた違いを乗り越えるのは不可能かも知れないともたまに考える。」

「聖俗未分離というのは、イスラム教の聖俗一致に世相は似ているが一度分離したものを一致させるのと違い問題が多い、僕がよく、日本人はイラクやアフガンみたいにアメリカの押し付けの自由を拒み続けているのと同じだと言うように、かつての人間魚雷、特攻隊はイスラムの爆弾テロ、所謂スイサイドボマーと同じなのである。」

日本も同じ心身一如=聖俗一致=聖俗未分離を壊されて普遍主義を拒絶している、日本のイスラムとの相違は、積極的に聖俗一致を唱えたか否かではあるが。

イスラムは聖俗一致を唱え近代文明を拒絶した、 日本は聖俗未分離のまま残るが、個が確立していなかった為に近代文明により聖と俗を分離されてしまった。
西洋だけが聖と俗を分離して近代文明を発達させた。

自由が要らないイスラムに自由を押し付けるアメリカ、『文明の衝突』でのサミュエルハンチントンはある意味で正しかった。

「このように近代社会には共通する部分がたくさんある。だが、こうした社会は必然的に融合して均質化するものだろうか?均質化するという主張の根拠となるのは、近代社会は一つのタイプ、すなわち西欧タイプに近づくはずであり、また近代文明とは西欧文明であり、西欧文明こそ近代文明だとする仮設である。」

西欧のウイルスは一度他の社会に入りこむと、消すことは難しい。西欧ウイルスは生きつづけるが致命的ではなく、患者は生き残るが、完全にはなおらない。政治指導者は歴史をつくれるが、歴史から逃げることはできない。彼らは引き裂かれた国家はつくるが、西欧社会はつくらない。自分の国を文化的な分裂状態に置き、それが国を定義する特徴となって維持されていくのだ。」

結局聖俗未分離は物心一如という仏教の教えと同じであり、物と心、聖俗一致を説いているのだろう。

そこから聖俗出入自在という考えが生まれたものと思われる。

近代文明により無理矢理聖俗を分離させられてしまった日本人は心身バランスを崩してしまった。

日本は聖俗未分離と今迄言っていたが、現状は近代文明により既に聖と俗は切り離され寧ろその切り離された聖と俗を一致させる事にありそれも今更元に戻れない洋才に合わせて和魂を洋魂に入れ替える事なのである。

魂才一致=身(物)心一如であり、和魂洋才の弊害と言うよりも寧ろ心身(物)一如を壊されたからと言ったほうが良いのかも知れない。

和魂和才でバランスが取れていたところを和魂洋才でバランスを崩され、最終的に洋魂洋才でバランスを取らされる羽目に陥ったという事なのだ。

聖と俗を分離するのが文明化の方法であり、その文明は日本の聖(和魂)では動かない文明であり、日本は才に合わせて魂を入れ替えなくてはならない羽目に陥ったのである。

聖と俗を離す為には個の確立は必須であり、日本の場合は個が確立していないのにも関わらず近代文明により無理矢理に聖と俗を引き離されたので日本人は一億総分裂症になってしまったのである。

「日本人は近代文明という危険な衣を無邪気にも身につけてしまった」といみじくも言ったお雇い外人教師の言葉は正しかった。

詰まり、洋魂=普遍主義を取り入れない限り日本はこれ以上発展しないという事である。

意地を張ってる場合じゃないという事である。

柳田國男が何故あそこ迄和魂和才に拘ったか今になって少し理解出来た気がした。

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