ポスト・モダン

ルネサンスに学ぶ

この文章は筆者が近代文明を学ぶ為には、一度ルネサンス迄遡る必要があると感じ、研究を始めた後で、祖父の民俗学研究にもルネサンスの研究をした軌跡を見付け、その後、祖父の考え方を再度読み直す事により、それでは果してこれからの世の中は如何なる方向に進むのかを考察したものでもある。

「文明の衝突」の中でサミュエル ハンチントン氏が、

「個人主義は、二十世紀の現在でも、諸文明のなかで西欧のきわだった特徴となっている。五〇カ国から集めた似たようなサンプルを分析した結果によると、個人主義という項目に最高点をつけた二〇カ国には、ポルトガルとイスラエルをのぞくすべての西欧諸国が含まれていた。個人主義と集団主義について調べた別の異文化調査でも、他の領域では集団主義が優勢であるのと対照的に、西欧では個人主義が優勢であることが同じように強調された。そして、報告者は結論として、「西欧で最も重視される価値は、他の地域では最も重要性が低いと見なされている」と述べた。西欧人と非西欧人は繰り返し、個人主義を西欧の重要な特徴としてあげている。」

と述べている通り、個人主義は西欧社会の大きな特徴である。

個人主義或いは個そのものを考える場合、キリスト教的な神の概念を外して考えるのはなかなか難しい。 しかし筆者の基本的な考え方として、自分がクリスチャンだけにことさら、オールマイティーつまり神という概念で安易に問題を解決するのは避けたいという気持があり、個についてもそのやり方は変えたくない。 また科学というものは、実証出来ない部分に神を当てはめて安易に解決しないところにその良さがあるのだとも思っている。 然し乍ら、民主主義だとか個人主義、自由主義という概念が西洋のものだけに、知らず知らずにキリスト教的な神の存在を前提としてしまう恐れが多分にある。 ヨーロッパを旅すると、否でも応でも人々の背後に宗教心が根付いている事を実感させられるのも事実であるし、個人が常に神と対峙していて、個体として機能している感じがし、これぞまさに個人主義という感じなのである。 たまにトランプの切り札として使われるオール・マイティーとジョーカーもこういった状況下で生まれたのではないかと思う。 イタリア人特に南の人は「カンターレ、マンジャーレ、アモーレ」と陽気に振る舞うが彼等は実に哲学的な人種であり、歴史の重さがそうさせるのだとも思える。 日本ではさしずめ「同じ阿呆なら踊りゃにゃ損々」というところである。 昨今の日本の状態はそれを通り越して、あの「ええじゃないか」を思い出させるものがある。 前掲の河合隼雄氏がいみじくも「アイデンティティーと深いかかわりをもつ宗教について言えば、仏教、道教、儒教などすべて外来のものである」と述べた通りであり、日本では魂の救いの働きをして来たのはその内の仏教だけである。 そういった状況の中で個の確立をするのは非常に難しい事は良く理解出来る。

加藤周一氏が「日本人とは何か」 の中でで述べられている様に。

「問題の外来思想は西洋思想であったが、いうまでもなく西洋はキリスト教世界であり、そのなかにプラトン的観念論を含む世界である。別のことばでいえば、その世界での価値概念乃至真理概念は、歴史的に、超越的なものとして成立しているのである。」

つまり、超越した概念が歴史的に成立するものである限り、不可能では無いという事である。

辻 邦生氏も同じ様な事を述べている。

「西欧的な概念というのは、プラトン的なイデア、つまり地上を超えた本質存在があって、そういうものが個々のものを通して現れている、というものです。日本人は、なるほど現実とかかわっているけれど、それを超えたものには本当には向き合っていないといえるんじゃないでしょうか。」
 

以前にも述べたが、柳田が「ヨーロッパではルネサンスというものが大きな仕事をして中世紀を壊している」と言い、又「羅馬とそれを教えた希臘や東国の学芸が、わずかずつ明らかになった頃を復興期と名づけている」と言っているように再度この時期に焦点を当ててみよう。 西洋文明=キリスト教と考えてしまうのは、致し方ないとは言え、ルネサンス=キリスト教と考えるのは、少し短絡的過ぎる。何故柳田がこの時期にこだわるのか、それは「羅馬とそれを教えた希臘や東国の学芸が、わずかずつ明らかになった頃」だからである。 柳田は、キリスト教以前の信仰を探っていたので、この時期の研究が必須だったのである。以来、西洋文明の水面下には、この時期の考え方、つまりネオ・プラトニズムが脈々と現在に至るまで流れているのである。 ここに、辻 邦生氏が「プラトン的なイデア」と言い、加藤周一氏が言う処の「プラトン的観念論を含む世界」があり、ヨーロッパをすぐにキリスト教と結びつけない柳田の姿勢は、よりネオ・プラトニズムに近いと筆者が考える理由があるのである。 「全ての道はローマに通じる」という諺も有名だが、「ローマは一日にして成らず」というのも有名である。ルネサンスからすぐに近代に移行した訳ではない。大事なのはその後の哲学的思考からこの近代文明が成り立っているという事である。

筆者も正直なところ、日本人の個が確立されていないのは、一対一で神と対峙する或いは超越的なものと向かい合う姿勢の欠如にありと短絡的に考える傾向にあった。 しかし最近、個が確立すれば自然に人の心に超越した概念が生まれて来ると確信するに至ったのである。 少なくとも、鶏が先か卵が先か議論を続けていても解決の緒が見付かるわけでもない。 「個人学」はその超越的な認識を得る為にも必須なのである。 信じているものが、神道でも儒教でも二十一世紀を生き抜く為には個の確立無しには済まない。 神がいないから個が確立出来ないのではなく、個が確立出来ないから神がいないのである。 先に、経済的個人主義或いは共和主義的個人主義という言葉で日本人を計るのは疑問であると述べた様に、こと「人格の尊厳」というものが関わって来るとどうしても超越的存在との関わりというものに行き着いてしまうのである。

「新しい動力の使用から始まる産業革命の延長線上に市場経済システムが成立した。このシステムもまたホーリズムの世界から人間を引離し、彼を独立の単位へと変える。ただし、この独立の単位は、超越的存在とつながる個人ではなく、自己利益の追求の主体としての「個人」である。宗教改革が生み出した個人と産業革命が生み出した「個人」は相互に似ていない面をもつが、共通の面をももつ。それはホーリズムの世界から切れている点である。ここに、宗教的個人主義と経済的個人主義とが相互に対立しながら共振する理由がある。実際、宗教的個人主義も経済的個人主義もともに同じ社会層、すなわちブルジョアと呼ばれる企業家たちをおもな担い手としていたから、両者の共振は当然であった。ただし、経済的「個人」は宗教的個人がみずからに付与した人格の尊厳という価値を身に着けることはできない。超越的存在とのかかわりなしに、この価値は生じないからである。」(個人 作田啓一 三省堂 一語の辞典)

ルネサンス期、人間は神学と哲学を融合し個を確立し科学を発達させた。 今、人間は哲学と科学を融合し個を確立し神学を導き出すという逆のコースを辿っている。 これは人間が分業という手段により科学を発達させ益々全能感をつのらせ、限り無く神に近付いて心の中から神を駆逐してしまい、それに反して個々の人間の力は相対的に弱小化し、全能感とは裏腹に宇宙との一体感を失うに至ったからである。 細分化された学問が、悟りへの道或いは覚醒への道を塞いでしまい、今人は複雑に絡み合った情報を全ての要素に一度分解して再構築出来る能力を要求されているのである。 真理の探究も悟りへの道、覚醒への道も本来おなじものであり、柳田國男が民俗学をして「自己内部省察」 であると言う「内省」無しには究められないのであり、この「内省」と言われているものこそ、自分を客観視するという哲学なのである。 日本の特異体質は特異体質を理解出来ない処に在り、これが特異体質の特異たる所以であると言ってしまえばそれ迄だが、これは自分を客観視出来ないという事であり、「内省」が出来ない事と同じである。 本来学問が社会に反映されてしかるべきであり、日本の場合逆に社会の特異体質がそのまま学問の世界にも映し出されていて、真理の探究姿勢を狭めてしまっているのである。 これでは本末転倒というものであり、先ずここから直して行かなくてはならない。 学問の目的が真理の探究にある事に、「余りにも一神教的過ぎる」と異論を挟む人間はいない。然し象牙の塔等と言って産学共同を極力避けて来た割には、真理という言葉が疎かにされている、かと言って産学共同でもかなりの遅れをとっているのである。 社会或は世間の観点から見れば一神論対多神論という二分法に於ける多神教的社会を取上げ一神教的な西欧社会との違いを論ずる事は出来るかも知れない、然し、こと学問の世界に於て果して多神論的学問と一神論的学問の区別が出来るか否かは甚だ疑問であり、これは柳田國男が「善と美はナショナルなものであって、真のみがそれを超えたインタナショナルなものである。」 と言った事にも通じるのである。

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