日本人は近代文明について何も判っていないのです。

これは西洋人が心と身体を一時的に離し近代文明を発達させ、日本人はその近代文明により心と身体を無理矢理に引き離され一億総メンヘラになった悲しいお話です。

筆者が日本の特異体質を追求し始めてから今に至るまで、日本人は教育と社会の齟齬でアイデンティティークライシスに陥らない方が不思議だと言い続けて来たのですが、事態は悪化の一途を辿る一方みたいですね。

今までは筆者も良い方向へ良い方向へハッピーエンディングのストーリー展開をして来たのですが、どうみてもこれは終戦の日に我が祖父柳田國男が折口信夫に言ったように「潔く死ぬのを美徳とする国民は、島国じゃなければとっくに滅亡していた」つまり絶望なのかも知れません。
日本には絶対の概念がありません、この世で絶対は自分と死だけですが、自分が無い日本人は死に向かうしか無いのかも知れません自殺大国日本ですしね。
致命的なのは日本人は論理的じゃないからなのです何故論理的じゃないのでしょう、情緒的過ぎます、情緒豊かな日本は良いが、情緒的な日本人は頂けないですね、これ皆聖俗未分離の前近代社会の特徴です、中世のままなのですよ。
右脳と左脳をわけられないので坊主憎けりゃ袈裟まで憎いスタイルになるのですね、筆者が20年来言い続けて来た「思い出すだけでも悔しい事から悔しい部分を取り除き思い出すだけの事にする作業」が出来ないのですね。

自分が無いからか自と他の哲学を導き出せないみたいです。
所詮この世は自分と他人しかいないと言う事すら理解しないし、ソクラテスだろうが皆おなじ条件だった事すら理解しない、何故でしょうね。

自分と向かい合わないし、自分を見つめる事がないのでからいつまで経っても大人になれない日本人、生まれてすぐ大人になる西洋人と死んでから大人になる日本人の違いですね。
日本では大人になると言う事が大人しいと同意義みたいですしね、子供が何か本当の事を言うと親から「○○ちゃんも少しは大人になりなさい」って言われる国ですしね、真実を言わないのが大人みたいな教育は避けたいですよね。
普通大人になると自由を欲します、ところが日本人は自由よりもむしろ秩序を好む、大人になりたくない症候群、所謂ピーターパンシンドロームなのです。

日本人は自分を持ってる奴を潰しちゃうからでしょうね、どこを切っても金太郎飴の教育しといて、政治なんて誰がやっても同じだと嘆くこと嘆くこと、同じになるように教育してるからでしょう、自己中を毛嫌いするから自己求心になる途を閉ざしてしまい、皆自己遠心(蚊帳の外)になる、皆がとか日本人がって言う時に自分が入ってないから傷つかない、これも長年培って来たセルフプロテクションの一つなのでしょうかね。

最初は筆者なりにどうしたら判りやすく説明出来るか一所懸命に考えました、でももう疲れました。

最初に断わらして頂きますが筆者は教科書に載っていない事を追求している関係上、教科書に載っている事しか信じない日本人とは接点が見出せない時が多々あります、下記したのは幾らググってもどこにも載っておりませんので予めご了承下さい。

何故かと言うと教科書に載ってないと言うのが盲点なのですから、日本が近代文明を輸入した時日本語の取説が付いて来なかったのが此処まで致命的になるなんて誰が考えたでしょうか。

西欧社会に対応する際の三原則を一応纏めてみました。

1.知性優先の原則
2.要素還元の原則
3.危険負担の原則

1.知性優先の原則

これが聖俗未分離の日本人の最大の難関であり、右脳と左脳を分けて考えられるようにならないといけないのです。

美意識先行型の日本人は海外から学問を輸入した時、真善美を美善真と勝手に並べ替えてしまったのではないかと思われる程、真実が最後に来ると考えると妙に納得してしまうでしょう。

つまり実際上真善美は和魂(総論)に邪魔されて輸入しなかったので、輸入したのは洋才(各論)だけだったと言うのが事実なのですよね。

これだけ嘘がまかり通り、国民に真実は何も伝えられない隠蔽体質で、特定秘密法案ってアメリカさんに言われるままに従ってもしょうがないでしょう、日本に必要なのは真実保護法案でしょう、皆口々に知る権利なんて言っても、日本人の大部分は知らないで過ごせる権利の方が大切みたいじゃないですか。

2.要素還元の原則

要素還元主義は科学の基本でしょ、日本人は因数分解は得意でもロジックはからきしなんですよね、数字のロジックは解けても文字のロジックは解けない、何故でしょう、日本人は余りの出るものは切り捨てちゃうからでしょう。

日本人は違いばかり論い共通項で括ると言う習慣がなく、拡散する一方で収斂すると言う事が無い、何故でしょう結局扇の要(哲学)が欠如するので、開きっぱなしでしまらないのですよ。
一般論かするのが科学であるにも関わらず、一般論化しないで下さいと分け判ったような事を言う人まで出て来る始末。

科学の目的は全能性の追求であり、手段は普遍性の追及である、両方の追求姿勢が欠如する日本では、日本では科学者でさえ非科学的なのです。
筆者はノーベル賞受賞者の根岸先生がインタビューで「真理の探求も大切だが、科学も大切だ」と言った時、おい待てよ、科学の目的は真理の探究じゃないのかと信じられませんでした、日本人はノーベル賞受賞者でもこの程度なのですよ。

聖俗未分離の前近代の社会では、科学も宗教と同じなのですよ、絶対に漏れない原子炉が漏れた途端、「神のみぞ知る」、「神の御技業だ」じゃ科学じゃなくて宗教でしょう。

結局それまで「のら黒上等兵」を読んでいた軍国少年が敗戦とともにこぞって「鉄腕アトム」を読み科学少年になっただけだからでしょう。

3.危険負担の原則

日本人は最近二言目には自己責任だと言いますが、日本人は私権の行使をも自己責任だと言ってしまう程無知なのです、何故ならば自己責任は自由に対応するものであり、私権の行使と個人の自由を同次元で捉えている限り日本人には個人の自由は理解出来ないのです。

福田さんが官房長官の時代イラクで斬首された香田君を捉えて自己責任だと切り捨てたのは有名であり、自己責任には違いないが政府との契約ではなく、政府の責任が免除されるわけではないのです。

筆者は公私混同ならぬ個私混同と呼んでいますが、個=私ではなく、個は自分を限りなく客観視して1を括りだしたものです。

個=individual=不可分業であり、だからこそtake care of yourselfと言い合って英語圏では暮らしているのです、日本ではtake care of yourselfを気をつけてなんて訳すからわからないのです、分業できないのだから自分の自分の面倒を看ろと常に唱えているのと同じでしょう。

日本人が以上3つの原則を守れないのは近代文明を理解していないからに他ならないのです、近代文明の礎になっている普遍主義の普の字も理解していないからです。

筆者が二行で判る近代文明と以前書いたのがこれです。

自分=主観=絶対
他人=客観=相対


自分(絶対)学=永遠の哲学=全能性の追求=科学の目的
個人(相対)学=永遠の科学=普遍性の追及=科学の手段


この二行だけで近代文明が成り立っている事が判ったら日本の社会は近代化出来るのですよ。少なくとも日本の鎖国300年の遅れはひとえに自分の欠如にあると理解できるでしょう、後は自分を取り戻す為に前に進むしかない、実にシンプルなのです。

筆者が日本はデカルト以前のオカルトの社会であり、海外の学説を振りかざしても虚しく響くだけと言うのもこれなのです。

筆者は今まで日本は国家形成が早かった為に統一規範としての宗教が必要なかったと、従来の宗教学者の通説を踏襲して来ましたが、最近になって聖徳太子が仏教を取り入れて以来35人の母親のDNAの混ざった日本人を統一するためにはご都合主義にならざるを得なかったと思うようになって来ました。

ある時は和をもって尊しとなすと言い、あるときは汝の隣人を愛せと言い、ある時は目上の者を大切にしろと言い、返答に詰まると人生なんてこんなもんだ、社会なんてこんなもんだと無常論を唱える。
社会あるいは人生は変えられるものであるという意識がない、仕方がない、人生なんてこんなもんだ、社会なんてこんなもんだではいつまで経っても変るわけがないし、子供が良く育つわけもないでしょう。

日本は室町時代迄は世界に誇れる文化を持っていた、千利休の茶の湯の心はプラトンアカデミーの市中の山居と同じである、わび、さび、しおり、遊戯遊山、聖俗出入自在、しかしヨーロッパではその後ルネサンスが興り近代化への道を歩み始めた傍ら日本はキリスト教を禁制にし鎖国への道を歩み始め最後の聖俗出入り自在=心身一如=聖俗未分離の状態のまま留まったのです。

柳田國男が「ヨーロッパではルネサンスが中世を壊している」と対談でいみじくも言ったように、日本はルネサンスが無かった為に中世の社会(聖俗未分離の社会)のまま残ってしまった、又柳田が「神道はキリスト教がヨーロッパを席巻する前の世界の宗教」と言うように、ギリシャ神話と同次元の宗教なのです。

聖俗未分離の日本、聖俗分離して科学を発達させた西欧社会、聖俗一致で近代文明を拒絶するイスラム社会、人為とは思えない次元を超えた違いがあるのは認めざるを得ません、然しながら近代文明を享受する為には知っておかなくてはならない事もあります。
日本の社会は聖俗一致を唱え近代文明を拒絶するイスラム社会に似ています、それは自由よりもむしろ秩序を重んじるからです。
お雇い外国人教師が「近代日本って言葉そのものがヨーロッパ人にとっては生きた矛盾だ」と言い、日本人は近代文明と云う危険な衣を無邪気にも身に着けてしまった」と言われながらも日本は此処まで近代化しました、然しながら和魂洋才に拘ったあまり文明化するチャンスを逃してしまったのです。
日本人は近代文明の淵源、科学の淵源、又フリーメイソンがいみじくも括りだした自由、平等、博愛の精神、キリスト教をも科学して生み出された普遍主義について殆ど知識の持ち合わせがありません。
又一般の国民はこれだけ普遍主義を拒絶しているにも関わらず、普遍主義がもたらした基本的人権、自由、平等だけは要求し続けると云う大きな矛盾を引き起こし、気づきもしません。

和魂洋才の弊害

明治維新の際、岩倉具視の一行が欧州を視察した時、欧州は一神論で動いていると知り、天皇制と競合するので急遽天皇を現人神に祀り上げ即席一神教を構築のです、又現人神を標榜した為に哲学(洋魂)を導入する訳に行かなかったので、和魂洋才と言って富国強兵を図ったのです。

和魂=文明=総論
洋才=近代=各論


結局総論に瑕疵がある時各論を幾ら弄繰り回しても問題は解決出来ないし日本は付け焼刃的な対症療法を続け増改築を繰り返した和洋折衷の家のようになってしまったのです。
各論だけを取り入れた為に近代化はしたが文明化しなかったとも言えます。

つまり日本人は洋魂を輸入しないまでも研究しなかった為に近代文明学総論と言えるものが欠如してしまったのです。

筆者が生まれた年にルースベネディクトは一度も日本に来た事も無いのに恥の文化でお馴染みの『菊と刀』を著しました、それ迄の日本と言えば、野球のセーフは敵国語だからよしって言い換えた位だったのです、大事な事は先ずは敵を知ることなのです、にも関わらず日本人の大部分は近代文明について無知過ぎますし、普遍主義を拒絶し続け、にも関わらず基本的人権だけを求める不思議な国民に成り下がってしまったのです。

日本の特異体質

本音と建前

日本人は海外から社会システムを導入した際、個の確立していない個人が直接社会と接しないで済むように緩衝装置として世間を残しました、それが都会化すると共に形骸化し、人が二人以上集まると即席に世間を構築するようになってしまったのですそれが最近言われている同調圧力になるこれをやり続ける限り日本はオンライン文化にはなれず、オフライン文化のままなのです。
代表取締役でさえ「一度社に持ち帰りましてから、後ほどお返事させて頂きます」と言わなくてはならないほど世間の掟は厳しいのです。

以来輸入の社会システムは教育システムに至るまで建前であり、社会は建前本音は世間であり、教育は建前本音は苛めなのです、最近ブラック企業と言われているワタミやユニクロは逆に日本古来の精神訓、苛めの組織であり、今までの企業体系が西洋の模倣であり似非だったとも言えるのです。

聖俗未分離

聖俗未分離についても少し説明しておかなくちゃなりませんね。

柳田國男が「ヨーロッパではルネサンスが大きな仕事をして中世を壊している」と言ったように。

文明化とは如何に中世から脱却するかであり、聖(魂)と俗(才)を一致させる事である。 それには相対化し尽くして自由を獲得する事しかない。

西洋人は神の領域と渾然一体となった中世社会から脱却する為に絶対世界と相対世界を切り離した、それが聖俗分離(secularisation)である。

つまりデカルトの二元論以降、東は個対無のナチュラリズム、西は個対全のヒューマニズムを採りました、ところが、日本は前述のように個が確立出来なかった為に無対全で個が欠如する状態のまま残ってしまったのです、つまりご都合主義の最たるところです。
イソップの蝙蝠のようにある時はファーイーストある時はファーウェストと地球が丸いのを良い事にご都合主義を採り続けたのです。
従って国民は全と無の間を行きつ戻りつしながら、無為に時間を過ごして来たのです、この全と無オールオアナンの姿勢は、聖俗未分離の最大の特徴であり、日本人の美化か自虐の二分法、全面勝利か玉砕かの二分法にも端的に現れています。

聖俗未分離はホーリズムとも呼ばれますが、イスラムの聖俗一致と違ってイズムでも主義主張でもありません。
聖俗未分離状態がプレモダン、聖俗分離がモダンだとすると、単なる主義主張、イズムの違いではない事が判るでしょう、所謂全体主義と個人主義の二分法では解けないのです。
逆に聖俗分離とは全と無のの何れかと対峙して個=1を括り出した状態を言うのです。

それでは最後に日本と近代文明を対比する際の心構え(教科書に載ってない部分)を少しご説明させて頂きお開きに致しましょう。

教科書に頼らない

日本固有の問題は輸入の学問では解決出来ないのです。
日本が近代文明を取り入れた際に、日本語取り扱い説明書が添付されていなかった為に多くの弊害を引き起こし今に至っています。一言日本語で「近代文明はデカルト以降の社会にのみ対応しています。」と書いておいて呉れさえすればこのような社会の捩れは起きなかったのです。
かと言って、現実のところは輸入の手法で説明するしか手段は無いと云う大きな矛盾を抱えているのも事実なのです。
海外の学説は全てデカルト以降の社会に対応しているので、日本の聖俗未分離の社会には適用できません。

自分で考える事の重要性。「自分で考えるの反対は皆で考えることでは無くて、自分で考えないこと」であるとは『「自分で考える」ということ』の著者澤瀉久敬先生の言です。

重要なのは結論では無く考えるプロセスである事を学ぶ事です。

全て論理に始まり(始めに言葉=ロゴスありき)論理に終わると認識する事。

無の概念を排除する、先ずは存在から始める事です、「私は在るという者である」と言うでしょう。

オールオアナン(全か無)の考えを止め、オールアンドワン(全と1=個)で考える。

全か無かでは一か八か当るも八卦、当らぬも八卦と同じでしょう、これが日本人の基本的なご都合主義の元です。

一神論vs汎神論に持ち込まない

近代文明=西欧文明と短絡的に結び付けないと同じに、と西洋=キリスト教と即結び付けない。

イタリアルネサンスはギリシャ哲学とキリスト教のシンクレティズムであり、後にフリーメイソンに引き継がれるネオプラトニズムの唱える神とはキリスト教の神では無く、一神論における絶対主である。

西欧も近代文明の前は野蛮だったのである。文明は物よりであり、その点から言えば野蛮でも近代文明は起せる訳であり、逆から言えば野蛮だからこそ出来たのかも知れないとも言えるのです、日本人に欠けるのは神の寝室をも覗くえぐさです。

無常論を唱えない

結論を焦って無常論を唱えるのは愚の骨頂である、初めから無常論を唱えていたら、考える必要も無い筈でしょ。

それでは幸運を祈る、当たるも八卦、当たらぬも八卦、人生なんてこんなもんだ、社会なんてこんなもんだなんてのは無しですよ。
こんなもんが嫌だったら変えようじゃないですか、他力本願じゃ駄目なんですよ、全ては自分からです。

【柳田國男は理解されていない】
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