パラダイムシフト

内省の勧め

始めに

筆者の祖父である柳田國男が民俗学をして「内部省察の学問」、所謂「内省の学」と定義付けたその「内省」の不足が、日本人の特異体質を生み出し、ひいては、柳田國男が正確に理解されない原因でもある これは団塊の世代の筆者が、受けた教育の内容と社会との齟齬に悩み、十年に亘り考え倦ねた末に到達した結論でもある。 又、柳田國男が最終的に「民俗学」を近代文明に対応する為の「新国学」として位置付けた様に、柳田國男の「知」の「技法」を踏襲し、それぞれの要素を柳田國男の考え方に照らし合わせて、筆者の疑問に対する答として導き出したものである。 柳田國男が主張し続けた史心・内省・実験は、各々が過去・現在・未来に対応しているかのごとくに映る。 その大きなうねりの中に、昨日・今日・明日という小さな波が繰り返される。 それは、日常の小さな営みが繰り返される事が、世界の大きな営みを造り出して行くというダイナミズムである。 彼のこの思考方法を理解出来なければ、彼の壮大な考え方は理解出来ない。 これは、自分自身の昨日・今日・明日を考えずして、国の過去・現在・未来を語る事は出来ないという事である。 自分自身の昨日・今日・明日、つまり日常生活のサイクルを、史心・内省・実験のサイクルの中に置く事により、過去・現在・未来を正確に把握する、これが柳田國男が独自に編み出した認識方法なのである。 彼が、哲学は避けて通ると言いつつも、方法論は充分哲学的なのである。 内省を中心に据える事自体が、自分自身を相対化するという哲学の基本なのであり、内省により括り出された理念を実践する事が、彼の所謂実験そのものであり、未来への指針なのである。

彷徨える日本人の魂

ファー・イーストでもなくファー・ウェストでもなく西と東の狭間を恰もイソップの蝙蝠の様に彷徨う日本人。 ヒューマニズムでもなく、ナチュラリズムでもなく、文明と文化、インターナショナルとナショナルの狭間を彷徨い続ける。 人は物と心の間を彷徨い、全と無の間を彷徨い続ける、この何れの対比も物と心の関係なのである。 これは全て独自の宇宙観の欠如から来る。 宇宙対人間の構図を追求する姿勢の欠如は人間の宇宙観(コスモロジー)を狭めてしまう。 つまり、マクロ・コスモスとミクロ・コスモスの関係を明確にする論理が無い為、精神性(善と美)を統御する真(論理)、つまり物と心を繋ぐ論理が欠如するまま文明に流され続けてしまうのである。

流れを変える

いい加減に日本人も「全か無か」の短絡的な発想法を断ち切り、「全と個(一)と」の循環的、或いは並立的発想法に転換しなければ、真の幸福等掴み様も無い。 例えば、「全」÷「論」=「個」の等式が西洋的なコスモロジー(宇宙感)であり、「個」÷「論」=「無」が東洋的なそれだと言い張ったとしても、「全「から「無」へ一足飛びに到達する事は出来ない、その間には「個」と「論」が厳然として介在しているのである。 西洋の「全」対「個」、東洋の「個」対「無」の各々の構図にも当て嵌まらない、日本の「全」対「無」の構図を聖俗未分離の状態と呼ぶのならば、これを前近代と呼ばずして何と呼べば良いのか。 西欧的な近代は「全」÷「論」=「個」の等式で成り立っている、と言うか、東洋的なコスモロジーとは正反対に「無」×「論」=「個」で個を創生させ、「全」の概念を逆に導き出したとも見えるのである。つまり「始めに論(ロジック)ありき」なのである。 然し乍ら、人生そう簡単に割り切れるものではなく、必ず余りが出るものなのである。 この余りの部分が宗教の受持つべき部分なのである。 要は、論(ロジック)により、如何にこの余りの部分を少なくするかなのである。 「論(ロジック)」は詰まる所数学であり算術である。 つまり日本人は「全」と「個(一)」の割り切れない要素を「論(ロジック)」の対象から外してしまったのであり、言わば、算術で解決出来る部分だけがシステムとして空しく回っているのである。 科学の時代は出来得る限り論理で答を求めようと努めるのが基本であり、その仕組を知らないと、即短絡してしまい、「全か無か」、つまり、神頼みになるか無情論を唱えるかの二者択一になってしまうのであり、これでは、都合が悪くなると論理が短絡してしまい、正義も良識も無くなってしまう。 日本は、この「全」或いは「無」と「個(一)」の二つの要素が「論」、つまりロジックの対象外になってしまっていて、ヒューマニズムの原点とも言える普遍性追求姿勢が何時迄経っても出て来ないのである。 それは何故だろうか、それは自分が無いからである。 自分を殺す、或いは無私、滅私と自分が最初から無いのとは大違いなのである。 先ずは零(無)から一(個)になる事である。自分が無ければ何も始まらない。 日本のこの自己遠心的なメンタリティーを自己求心的なものに変えられるものは内省以外に無い。自己求心は自己中心とは違うのである.

方法論

日本では兎角明治維新後の近代化を欧米化という表現をする事が多い。 明治維新後の近代化を西欧化とすると、第二次世界大戦後は米国化である。 米国の近代は、西欧の近代化を限り無く記号化し、システマチックにしたものであり、西欧の宗教を基盤とした近代とは趣を異にしている。 これはフリー・メーソンの掲げている、自由・平等・博愛という、宗教的な規範を越えた、人類の普遍的原理を基調にしており、特定の宗教に縛られるものではない。 日本の憲法も敗戦により、これに倣って制定されている。 信教の自由とは、信教からの自由をも同時に意味し、宗教の最大公約数的な要素を社会システムに組み込む必要性を生じさせるのである。 例えば、宇宙が人間の意識の集合体或いは総体の様なもので出来ているとしても、科学で解明されていない両端の要素、つまり宇宙対人間の構図を、全と個、或いは個と無で表す公式或いは定理の様なものの必要性である。 かくして人間は、最大限の自由を確保する為に、「個」と「全」という両極の要素を個人の裁量に委ねた「個」から「全」へ循環するシステムを構築したのである。 一見理想的なこのシステムも、爛熟期を迎え、人はポスト・モダンのエートスを模索するに至ったのであるが、資源の枯渇というニヒリスティックな要素を孕んだ近代文明を、エコロジー的な自然との共生という観点から捉え直し、西のヒューマニズムと東のナチュラリズムのハーモニズム的な考え方を持つ人間が増え、それと同時に、一度分離した心と身体を元に戻す試みの様に、東洋の考え方が一躍脚光を浴びて来たのである。 然し乍ら、日本人はこの「個」から「全」ヘ循環するシステム自体を理解しようとせず、近代文明のもたらす均質化が人間の心と身体を便宜的に一度分離する事により得られるという事への認識が希薄なまま、そのシステムの実質的な利便性の追求の面のみを利用する事に専念し、逆に近代文明により心と身体を引離されつつある。 元々近代文明が流入する以前の日本は、文明は文化とほぼ同等の立場にあった。 元来文化は精神性(心)に基づき、文明は物(利便性)に基づくという性質があり、近代文明の流入と共に、文化と文明のバランスが崩れ、日本固有の文化は文明に取り残されるという結果を招いてしまった。 つまり心(精神性)が物(利便性)に凌駕されてしまったのである。 これは、精神性(善及び美)を統御する真(論理)の欠如に起因しており、以来日本の精神性(メンタリティー)は発展性或いは流動性を欠いてしまい、自己完結型の論理空間の内に籠ってしまったのである。 近代文明にはヒューマニズム的側面とマテリアリズム的側面があり、物心一如の前に物身一如という概念がある。 所謂「和魂洋才」と言われているものそのものが、ナチュラリズムとマテリアリズムの安易な結合であり、文化と文明の齟齬をもたらし、ひいては心と身体の乖離をひき起しているのである。 世に言われているナチュラリズムというものが物心一如の状態をさし、近代文明がそれをマテリアリズム(物)とヒューマニズム(心)に分離したものだとすると、日本はさしづめそれをホーリズム(聖俗未分離)とマテリアリズムが並存するという実に特殊な状態にしてしまったとも言える。 その上更に、精神性(全体主義)を護る為に、「世間」を温存させ、「世間」と「社会」の二重構造により 文化と文明の齟齬にかろうじて対応して来たのである。  日本の学ぶべき点は、西洋的なスクラップアンドビルドである聖俗分離であり、モダンというものが嫌が応にも心と身体を分離してしまうものであり、ビルドの方法を知らないでスクラップされつつあるという現状認識の必要性なのである。 その上更に不幸な事に、日本人は東洋的なアプローチの仕方が判らず、此処ぞとばかりに西洋的なアプローチを再びしようとしているのである。 東洋のナチュラリズムの国の筈である日本人が自然との共生を忘れ、利便性の為に環境を破壊し続け、西洋のヒューマニズムの国のアメリカが東洋のナチュラリズムに傾倒するという、本来逆であるべき現象が生じているのである。 ここに短絡的な日本人の姿勢が見え隠れする、と言うのは、モダンを通り越して一足飛びにポスト・モダンに移行する事は出来ないからである。 キリスト教的(西洋的)なアプローチを採るにしても、仏教的(東洋的)なアプローチを採るにしても、その中心に来るものは内省であり、日本人に欠けているものもこの内省である。 日本人は、キリスト教も仏教も所詮は外来であると両方とも排除してしまい、結局内省を学ぶ機会を失ってしまったのである。 物(人)寄りのアプローチをヒューマニズムと呼び、心寄りのアプローチをナチュラリズムと呼ぶとすれば、物(身)心の中心には内省があり、内省こそがハーモニズムそのものであるとも言える。 つまり、内省が物(身)心一如のキーであり、ハーモニズムこそがその実践という事になるのである。

自分が無ければ始まらない

国の在り方と個人の在り方は必ずしも一致しない。 然し、国の法人格という表現が仮令あったとしたら、人格の統合の必要性という観点からは、同じ事が言える。 個々人の考え方が社会に反映され社会は変動して行く。 社会が変らないという事は、社会の構成員である個々人が望んでいないとも言えるのである。 個々人の人格が国の法人格にも現れるという事である。 国際という言葉は、国家の存在を大前提に存在する。 他所の国の数だけ国家の顔としての法人格を拡げ持つ訳には行かない、それと同じに人間の人格も一つであるべきであり、これが普遍性の追求姿勢と言われるものである。 普遍=universalを国際と訳すか、internationalを国際と訳すかで大きな違いが生じるのである。

世に言われている、「自分探し」或いは、「自分史」というものは、言わば人間の原点である。 古今東西、様々な形で試みられて来た。 自分の存在そのものを確認しようとする人間の本質であり、永遠の哲学である。 永遠の哲学の所以は、この世では答が得られないからである。  

人は経験を重ねるごとに、社会の様々な側面に対応する為に、その人格を拡げ時に拡がった人格は統一を失い、恰も多重人格の様に、各々が別々に働いてしまう事がある。 人間の一生は短く、宇宙の拡散と一緒に拡がり続ける事は出来ない。 従って人間は時に拡がってしまった人格を統合しようと試みるのである。 これが、人格統合としての「自分学」である。 自分と正面切って向かい合う、簡単そうで非常に難しい作業である。 何故ならば、人格の拡散そのものが、人間の弱さを端的に現しているからである。 つまり、人間は自分の不得手な事に直面すると、自分の代理の人格を立て、本当の自分と社会的な自分に分裂させられてしまい、本当の自分が傷付かない様に行動するからに他ならない。 柳田國男は民俗学をして「自己内部省察の学問」と定義した。 又、「良き選挙民を育てる教育」の必要性を説いていた。 選挙民即ち、社会の構成員である。 然し社会の構成員が、自分自身の「自己内部省察」、つまり内省が不得手ならば、社会の内省等出来ようも無い、先ずは個々人が内省を覚える事が先決である。

内省とは、正面切って自分と向かい合い自分を客観視する事である。 人は社会での様々な摩擦に傷付き、行く手を塞がれ内面に入り込み、内省を覚える。 日本では個人主義を兎角自己中心主義と勘違いするきらいがあるが、西欧でさえ外に向って個を貫き、外側に個の領域を拡げるのは難しい。 何故ならば、個の領域は内側に限り無く拡がるものであり、個は内側に貫くものだからである。 そうして初めて個が確立され、人はお互いの内面に敬意を払うようになる。 個々人が内面に入るという術を知らないと、社会で行き詰った際に、行き場を失い安易に自殺を選んでしまったりするのである。 個人主義とは自己中心主義ではなく、自己求心主義なのであり、日本の様に自己遠心的な社会では中々理解出来ない事は確かであるが、個々人が内面の限り無い拡がりに気付き、自分というものを相対化し、普遍的な個人を括り出す事が、個人主義を社会に反映させる為には必須なのである。 社会を語る前に先ず「自分学」をする事であり、その認識があれば、安易に「自分探し」、「自分史」或いは「生涯学習」等と口に出来る筈も無いのである。

  • 独自の宇宙観を持つ。
  • 個の概念を導きだす。
  • 自身の昨日・今日・明日を、史心・内省・実験という、内省を中心に置いたより積極的なものに置き換える。
  • 真・善・美を再構築し、精神性(善・美)を統御出来る普遍的なロジック(真)を持つ。 【HOME PAGE】
    inserted by FC2 system