パラダイムシフト

個人学

始めに

今迄この世に「個人学」という学問は存在しない。何故ならそれは西の世界では今では当然の事だからである。 ところが西の世界に入り込んでしまった極東の日本では必須科目なのである。 日本は開化と共に、既に真・善・美にカテゴライズされた学問をそっくり輸入してしまったからで、当然日本向けにアレンジされたものではなかったのでそこには「個人学」というカテゴリーは含まれていなかった。 果して「個人学」とは一体どういった学問なのだろう。答は簡単である。 分業出来ない事は誰がするのか。自分でするしかない。当然である。「自分の事は自分でする」のが原則であり、「天は自ら助くる者を助く」である。 この当然の事を今の今迄しないで済ませて来たのが日本であり、この当然の事を学ぶ学問が「個人学」である。

個人主義は個人が神と一体一で対峙している事が基本であると言われる。 果して鶏が先か卵が先か考えてみよう。 日本人は兎角西洋=キリスト教と決めつけてしまい、イタリアルネサンスがギリシャ哲学とキリスト教の融合言わばシンクレティズムである事すら知らない人が多い。 「ローマは一日にして成らず」と言う様に、中世の後突然近代になった訳でなく、哲学的な思考の後近代文明が芽生えた事を知らなくてはならない。 前述の通り日本は西洋から学問をそっくり輸入した為、この哲学的思考無しで哲学を学んでしまった。 日本人がすぐ教科書に頼ろうとするのはここに原因があり、日本人が哲学と考えているのは大部分が哲学史である。 大事なのは未だ教科書が無かった時代、つまり神を信じ、自分で考える事しか出来なかった時代を思い起こして頭を一度原初の姿に戻してみる事である。 神がいないから個が確立出来ないのではなく、個が確立出来ないから神がいないのである。 先人達が自分の存在意義を見い出す為に「神の存在証明」を何回となく試みた様に、現代人はすべからく「個人学」を学ぶ必要がある。 イタリアルネサンス期の哲学はネオ・プラトニズムである。これはギリシャ哲学とキリスト教の融合の試み、言わば哲学と神学の融合の試みである。 メディチ家のヴィラで開催されたプラトン・アカデミーを中心に興った文芸復興運動で、後に東方の錬金術、占星術等オカルト的要素を取り入れた為、或いはフランスのアカデミーと違い、金持ちのサロン的要素の強いものだった為に、イクザクト・サイエンスとは相容れない要素が多く、ネオ・プラトニズムは学問としては現代に受け継がれていない。 然し、ルネサンスの運動はアルプスを越えフランス、ドイツを経てイギリスに渡り、秘密結社の活動を通して脈々と現代に受け継がれて来たのである。 何よりの特徴は、彼らは信じるという要素を捨てずに持ち続けその中で自由に研究し議論していた事で、この信じるという要素が全ての矛盾を解決する鍵だったのである。 ルネサンスは複合的な文化運動であり、「始原の追求」を含む全ての要素が文化的にも社会的にも多岐に亘って見られ、学際的な研究が必要と言われており、既存の尺度を超えた追究姿勢が要求される。 この運動を契機に先人達が括り出した「自由」、「平等」、「博愛」の精神はフランス革命、アメリカ建国ひいては日本国憲法にも多大な影響を及ぼしていて、ルネサンス研究なくしては何事も語れない状況にある。

個人学は永遠の科学である

科学とは利便性追求の為の分業であると同時に、全能性追求の為の分業でもある。 科学の基本とも言うべき要素還元主義は平たく言えば因数分解の様なものであり、要するにより大きな単位から共通項で小さな単位を括り出すという事である。 この括り出すという習慣が欠けていると二元的なものを一元に持って行こうとする力がどうしても働かないのである。 これが日本人が常に主観と客観を混同し、目的と手段を取り違え、内と外で態度を変え、本音と建前を使い分けても平気でいられる元凶なのである。 これはそのまま学問の世界にも現れている。 分業の弊害である目的と手段の分離が、総論と各論の分離を引き起こし、間口ばかり拡がり纏める人間がいないという状況をつくり出しそれが「和魂洋才」により更に隔絶されしまったのである。 本来、魂は目的で才は手段だからであり、目的と手段は一致しているべきものだからである。 これが筆者が「魂才一致」の原則と呼ぶものである。 この事を分業の弊害と呼ぶのは真善美にカテゴライズされた西洋の学問をそのまま輸入したから目的意識が希薄になってしまったからで、科学という分業の原点である個の確立を怠っているからに他ならない。 これは柳田國男がいみじくも言った「綜合なき学術」、「分業の弊」という言葉でも端的に表される。 社会の最小構成単位である個人は英語でINDIVIDUAL(indivisible)と言う様にこれ以上分割出来ない。 従って個人に関しては分業が出来ず、自分で勉強する他はないと言う事になり、個の確立とは分割出来ない個を個人が責任を持って科学する事である。 分科された学問としての科学は分業であり、分業出来ないものに関しては扱われないのである。  「個の確立」が重要な事迄は教科書に載っている。 その先は何故教科書に載っていないか? それは、宗教的、哲学的な要素を抜きにしては語れないからである。 例えば絶対者=神というものを考えた時、絶対的なものは自分の内にしか無い事に気付く。 「自分学」=「個人学」である。 「個人学」が要素還元主義を基本とする科学だとすれば、「自分学」は始原の追求を目的とする哲学である。 ここで「自分」という存在が、哲学、科学の接点である事が理解出来、自分で解決するしか無いという事が判る。 先ずは、宗教的な要素を「信じる事」、哲学的な要素を「(自分で)考える事」と定義し「信じる事」と「自分で考える事」の二つの要素だけにしてしまって自分で考える事から始める事である。

「私が最も恐れることは、事実に基かぬ早急な一方的判断の横行と共に、専ら洋学のセオリーを日本の現実に当て嵌めて足れりとする現在の一般的学問である。かかる風潮を私が恐れるのは、何も私のナショナリズムではない。日本は独仏伊その他欧州諸国とは異なって、永い間の固有の閲歴が背中にくっついているのだから、西欧社会から生れた洋学の理論が其儘この日本に適応し得るとは到底思へないし、それでは理解し得ぬものが後に必ず残るはずである。人間は凡そ何処も同じで何処かの優れたセオリーを持って来れば何事も全て解けるといふ考へ方は、最も実り少い学風ではないかと思ふ。漢字を支那から輸入して今以て苦しんで居る日本の実情は其一例であらう。」
と柳田國男も述べている様に、スタートが西欧の真・善・美というカテゴリーでは問題は解決出来ないのである。 これは三百メートル投げられるリールを二百メートルの所で糸が絡んでいるのをそのままにしている様なものである。 つまり、原点に戻る習慣を身に付ける事である。  今迄の考察により個の確立が如何に重要かが理解出来ると思う。 個が確立されていないという事は、科学の基本である要素還元主義の原点たる「個人学」と哲学の基本である「始原の追求」の原点たる「自分学」を怠っている事である。 これが出来ないと、ロジックの原点でもある共通項で括るという「普遍性追求姿勢」はいつ迄経っても得られないのである。  宗教的、哲学的な要素は難解でなかなか馴染めないものであり、柳田國男も前掲の「私の哲学」2 の中でこう語る。

私の宗教心

「キリスト教の人たちに一ぺんは聞いてみたいことは、完全に一生を送った人が行くという天国は、今と大昔と少しも変わりはないのかという点です。子供たちはヘヴンというものが、本当に何処かにあるのだと思っておりますね。しかし果して牧師さんたちが、やはりそう信じて人に説いているかどうか、或はもっとむずかしく理論的にその意味を解説して聴かせているのではないか。たとえば、人間が何の不安も無く、楽々と人の世を去って行く状態が、即ち昇天だという風にいわないと、もうそれらの人が承知しなくなっているのではないか。そうなると仏教の極楽も、我々日本人の『あの世』というものも、段々と互いに近よって来るように思われます。仏教でも尠くとも近頃は、極楽という浄土があるという風には信じておりません。この間も名古屋の浄土宗の或る坊さんと話したことがりますが、今の僧侶たちで、極楽というものが本当にあって、完全な一生を遂げた者は、そこへ行くと信じている者がありますかといったら、一人もないでしょうと極めて無雑作に答えたことでした。」

筆者の言いたい事もここにある。21世紀になんなんとする現代、成人になってから或特定の宗教に入って行くのは非常に難しい、正直言って筆者も幼児洗礼だからこそ自分はクリスチャンであると言えるのであって、人生の半ば過ぎに果して洗礼を受けたかどうか疑問である。 お前は本当に聖書を信じているのかと尋ねられてもなかなか素直に「YES」と答えられないものである。 これは洗礼の時神父が「貴方は全ての偏見を捨てますか」と尋ねる時、自分には素直に「YES」と答える自信が無いからでもある。 よく「うちは仏教だから」というが「うちはキリスト教だから」とは言わないで代りに「私はキリスト教だから」という位キリスト教は個人的な宗教なのである。  キリスト教的な考え方が行き渡っている国々では国民は意識せずに神の概念が小さい頃からインプリントされていて、一々の局面で改めて考えている訳ではない。 これは小さな子供に、赤ん坊は鸛が運んで来る、或は良い子にしていればサンタクロースがプレゼントを呉れる位の気持で悪い事をしたら神様が罰を与えると説明する様なものであり、従って成人に説くには難しいものなのである。 一般的に日本人は、外来文化に器用に対応する民族と言われており、今日の経済的な発展もこの器用さから生じているとも言われている。 少なくとも宗教に対しては常に柔軟に対応して来た事は事実であるが、宗教をも哲学的思考により論理的に分析し発展的に消化させ、近代文明を発達させた西欧の論理に対して、日本人は余りにも無防備過ぎるとも言えるのである。 ヨーロッパ型近代に対しては未だ何とか追従出来たが、第二次世界大戦後のアメリカ型近代のもたらしたプラグマティズム迄は消化し切れなかった様である。

同じ時に柳田國男は哲学についてもこう語っている。

哲学に望む

「日本の哲学についていいたいことは、どうも表現の技術が進まないということです。私はいわゆるプロフェッショナルな哲学が全滅すべきだとは考えていないが、日本の言葉を自由にし、クリアにする哲学が出来れば美のためにも必要だと思います。そのためには単純な言葉でなければなりません。今日のようなむずかしい言葉で書く哲学は、私共が一番簡単な方法としては逃げることです。(中略) 今日まで、哲学をむずかしくしたのは訳語の選定がわるかったことと、人によって訳語が違うことです。それをちっとも断っていないから混乱を免れない。それが哲学を不人望にしたのだと思っております。しかし、それだからといって彼らをまるっきり押出さなければならぬと考えてはおりません。これから先、解り易い百万人の哲学というのが生まれれば私も或は読むかも知れません。」

自分の書いたものを英語に訳そうとする時いつも思うが、英語は文明の発達と共に恰もそれを説明する為に出来ている感じがするのである。 日本人は近代を考える時既に言葉のハンディキャップを負ってしまっていて、共通認識がなかなか得られなくなってしまった様である。 これが筆者が哲学とは自分で考える事であり、学び取るものでは無く体験するものであるという所以でもある。 「個人学」はこの宗教的、哲学的な要素を「信じる事」と「(自分で)考える事」の二つの要素に還元し、「自分」と「個人」との対比の中で「普遍性追求姿勢を」体験的に会得しようという試みである。 全能性追求或は普遍性追求という様な形而上学的表現は明確な定義付けが本来必要である。 例えば、マクロ・コスモスとミクロ・コスモス、全と個、全能性追求と普遍性追求、或は悟りへの道と覚醒への道も詰まる処同じ超越的なものの表現方法であり、実証科学の枠を超えた両極に位置付けられるものである。 それらが密接に関連し合って人間の意識及び認識に影響を与えるのであるが、残念乍ら現在の処それらに対する共通認識が生まれるには至っていない。 つまり、「ミクロ・コスモスはマクロ・コスモスの法則で動かされる」と表現するのか「人間は自然の摂理で動かされる」と表現するのか、或は筆者が「個から全への循環するシステム」と表現する様な、真理あるいは摂理の日本独自の表現法という様なものが必要なのである。

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