日本

「和魂洋才」について

これは恰もコンピューターのCPUとDOSの関係に似ている。 本来「魂才一致」であるべきものを無理矢理こじつければ、どこかに皺寄せが来るのは当然と言えば当然の事で「国家神道」も主権が先送りされていた戦前はかろうじて機能していたかの様に見えたが、戦後真の民主主義を取入れ天皇が「人間宣言」をし自由主義経済の下に復興を図り、益々国際性を要求される様になると、「和魂」は形骸化し絶対者不在の儘「自由主義」、「個人主義」だけが一人歩きし始めたのである。

平川祐弘氏は「和魂洋才の系譜 内と外からの明治日本」 でこう述べる。

「洋魂洋才」や「和魂洋才」は、近代化の人間的基礎などとして、過去にも説かれ、現在でも問題とされることのある、日本乃至は日本人の進路の公式だが、今日の日本人は、自分たちが西洋人ではない以上「洋魂洋才」という指針はたとえ主張したくても主張しにくいが、さりとて「和魂洋才」を主張するとしては「和魂」についての自覚がなく、一種のとまどいを覚えているのが現状である。今日の日本人は、宿命としての西洋化―それは西洋化の方向へ進んできたということであって西洋人になったということではない―の結果として、徳川時代の日本人とは同じとはいえず、さりとて西洋人でもなく、いわば混血児に似た一種の精神上の不安定感に悩んでいる。それだから、ある時は日本文明への帰属感を確認することによって自己同一性を保持しようとつとめ、ある時は西洋の近代文明の摂取やその他の思想や文物の借用によって自己変革を試みようとする―そのような行きつ戻りつの運動は日本国民全体としても見られたし、また個人個人の精神の遍歴の中にも見られた現象なのである。しかしそのような混沌を動揺の中で自分たちがいかなる文化史的状況の下に置かれているのか、ということを自覚的に把握することは、日本の将来の建設に参画しその方向決定を考えようとする際にも一助となるにちがいない。」

まさにアイデンティティー・クライシスそのものである。

近代文明及びそこから派生する民主主義、自由主義、個人主義等のイデオロギーを善とするならば、日本は最早そこから時代逆行する事は無い。 本来、西欧普遍主義からもたらされるそれらのものを、理論的に構築する事は可能である。 然し乍ら、社会システムと社会の齟齬は依然未解決のまま残されているのである。 経済的個人主義或いは共和主義的個人主義という言葉で日本人の心を解釈する事が出来るかは甚だ疑問である。 社会と社会システムのミス・マッチが社会と個人のミス・フィットを引き起こし、当の本人が自覚すらしていないかも知れないという事である。 つまり、自分が社会と社会システムとの齟齬によって、アイデンティティー・クライシスを起こしているとも知らず、社会にミス・フィットしている自分を責め続けるのである。 日本人のアイデンティティーは大部分解き明かされている、只、新しいシステムとの相性が悪く、アイデンティティー・クライシスを起こしているだけである。言わば、コンピューターのCPUとDOS及びハードウェアとソフトウェアの関係の様である。 明治以降「和魂洋才」と言って喜び、戦後五十年今度は「インテル・インサイド」と言って喜んでるみたいなものである。

河合隼雄氏は「日本人の心のゆくえ」 の中でこう述べる。

「日本人は「創造性が少ない」「個性がない」、人真似はうまいがほんとうに自分自身の意見とか考えをもっていないので、わけがわからない、という批判は、今もそのまま存続している。これに対して、日本人が世界に対して、その批判は当たらないことを、はっきりと表明できたということはない。 このような言い方をしていくと、日本の現状はまったくの「ないないづくし」である。どこに日本のよさや特徴があるのだろうか。個人の生き方を考える上で「アイデンティティー・クライシス」という概念がある。(中略) 日本全体の今の状況は、このアイデンティティー・クライシスに陥ってると言えるのではなかろうか。」(中略)

更に河合氏は、

「アイデンティティーと深いかかわりをもつ宗教について言えば、仏教、道教、儒教などすべて外来のものである。明治になってヨーロッパ文化に接したときも、大急ぎで取り入れようとしたが「和魂洋才」という考えを立て、このときはアイデンティティーを「和魂」に求め、ゴールを見失わないようにした。このときも「追いつけ追い越せ」で頑張り、昭和の初期になって世界の「列強」のひとつになったと思い込み、このときは「和魂」は「日本精神」とか「大和魂」と呼ばれ、ゴールがあるかに思ったが、敗戦によって、そのゴールが間違いであることを思い知らされた。」

と述べている。

又氏は、「おわりに」の中で、下記の様に述べている。

「日本人のなかにも西洋近代の自我と相当にわたり合えるような自我を確立している人も、少数ながら出てきた。とは言っても、日本人が努力を重ねて、西洋近代の自我を確立していくことは、大変困難なことであろう。」

筆者がコンピューターを引き合いに出して言いたかったのは、この点が問題なのである。 例えば「和魂」、「洋魂」という「魂」の部分がCPUで、「和才」、「洋才」の「才」の部分がDOSだとし、それぞれ「世間」、「社会」というシステム上で動くとすると、「和魂」―「和才」―「世間」という組み合わせと「洋魂」―「洋才」―「社会」が理想的な組み合わせの筈である。 現在の日本での組み合わせは、「和魂」―「洋才」というCPUとDOSを「世間」と「社会」という国産と輸入のシステムつまり、二つのハードウェアで無理矢理動かそうとしているという事になる。「和魂」と「洋才」の組み合わせは、明治時代から使用しているので、どうにか間に合うが、「和魂」と戦後に導入された「社会」との相性がどうも悪いみたいである。 「世間」システムを使用している人は未だよいが、「社会」システムを利用している人はすべからくアイデンティティー・クライシスに陥るのである。従って、新しい「和魂」を早く作り、「世間」システムの使用を速やかに止めなくてはならないのである。 いちいち「世間」システムで変換してから、「社会」システムで使用するのでは、中の「人間」と言うソフトウェアに負担が掛かり過ぎるのである。 今さら「魂才一致」と言って、「和魂和才」にする訳にも行かないし、コンピューターの様に「洋魂洋才」にする訳にも行かないが、少なくとも現在のシステムを採り続ける限り、「洋魂」もしくはそれに代わる「洋魂コンパチブル」の「普遍魂」或いは「共通魂」の研究は必要である。いつまでもインテルインサイドでは困るのである。 つまり、ナチュラリズムとヒューマニズムの両方に適応出来るハーモニズムとも言うべき、新しい宇宙観を見い出す事なのである。

「世間」と「社会」の二重構造

日本は島国と言う条件に加えて一民族一種族という幸運な条件から国家形成が早く、元々統一原理としての宗教は必要とされなかった。 宗教と言えばシャーマニズムから発達した神道であり、天皇を中心とする父家長制「ムラ社会」所謂「世間」を形成していたに過ぎない。 日本の神道には教義或いは経典と言えるものが無い。 教義は全て民間伝承の中にあって、祭に参加する事により代々口承で伝えられて来たものである。

「現在宗教といわるる幾つかの信仰組織、たとえば仏教や基督教と比べてみてもすぐに心づくが、我々の信仰には経典というものがない。ただ正しい公けの歴史の一部分をもって、経典に準ずべきものだと見る人があるだけである。しかも国の大多数の最も誠実なる信者は、これを読む折がなく、また文書をもってその信仰を教えられてもいなかった。それゆえにまた説教者という者はなく、少なくとも平日すなわち祭でない日の伝道ということはなかった。そうしてこれから私の説いてみようとするごとく、以前は専門の神職というものは存せず、ましてや彼らの教団組織などはなかった。個々の御社を取り囲んで、それぞれに多数の指導者がいたことは事実であるけれども、その教えはもっぱら行為と感覚とをもって伝達せらるべきもので、常の日・常の席ではこれを口にすることは憚られていた。すなわち年に何度かの祭に参加した者だけが、次々にその体験を新たにすべきものであった。温帯の国々においては、四季の循環ということが、まことに都合のよい記憶の支柱であった。我々の祭はこれを目標にして、昔から今に至るまでくり返されてのである。祭に逢わぬということは非常な損失であり、また時としては宥しがたい怠慢とさえ考えられていた。祭は国民信仰の、言わばただ一筋の飛石であった。この筋を歩んで行くより他には、惟神之道、すなわち神ながらの道というものを、究めることはできなかったわけである。」(日本の祭 柳田國男)

これを専門用語で「非言語系の知」と呼ぶそうである。所謂「記録」でなく「記憶」によるものである。

他の研究者の所謂「柳田國男論」を引用するのは好まないが、佐谷眞木人氏が、氏の著書の中で、次のように述べている。

「右によると柳田は「祭」という行為を体験することだけが、神道の信仰を媒介していたと考えている。つまり行為と感覚という言語によらない、あるいは言語化し得ないコミュニケーションが成立することによって神道は生き続けてきたというのである。そしてその信仰が現代に生きるものとして命脈を保つ鍵は、非言語による記憶の連続が維持されるか否かにかかっているのである。」

前に述べたが、柳田定まった教義の無い日本の神道の習慣を教義は全て民間伝承の内に在りと、民俗資料の採集に力を入れたのであり、彼のしていたのは、「非言語化による記憶の連続」を言語化しようとしていたのである。 この「非言語化による記憶」という言葉で表されている、所謂「記録」と「記憶」の問題は日本人の特異体質でもかなり大きな部分を占めているのではないかと思われる。

阿部謹也氏も「『世間』とは何か」10 で「世間」と「社会」との対比の中で「非言語系の知」について述べている。

「いわば世間は、学者の言葉を使えば「非言語系の知」の集積であって、これまで世間について論じた人がいないのは、「非言語系の知」を顕在化する必要がなかったからである。しかし今私達は、この「非言語系の知」を顕在化し、対象化しなければならない段階にきている。そこから世間のもつ負の側面と、正の側面の両方が見えてくるはずである。世間という「非言語系の知」を顕在化することによって新しい社会関係を生み出す可能性もある。」

柳田國男の考えていたのもまさにこの事だったに違いない。

氏はこの本の冒頭でも、以下の様な事を述べている。

「わが国の社会科学者は、学問の叙述に当たっては西欧的な形式を用いながら、日常生活の次元では古来の世間の意識で暮してきた。したがって叙述の中に自己を示すことができなかったのである。わが国の学問にはこのような問題があると私は考えている。もちろん学会もひとつの世間であるからこのような問題提起がただちに受け容れられるとは私も思ってはいない。」実に興味深いコメントである。更に阿部氏は「知識人の責任」という項で、「世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。わが国には人権という言葉はあるが、その実は言葉だけであって、個々人の真の意味の人権が守られているとは到底いえない状況である。こうした状況も世間という枠の中で許容されてきたのである。」

と結んでいる。

更に、朝日新聞 平成十年一月十九日付夕刊でも 「伝えるということ」というコラムで以下の様に述べている。

「他者を排除する日本の根」

「中世以前からある恩や義理と結びついた複雑な人間関係がつくる『世間』は、明治以降もしっかり根づいたままだ。その解体なしに日本は変わらない、と考えている。」

「日本の社会、実は世間は、他者を排除する。盛んに国際化といわれているが、私たちが世間という時、そこには世界の人々を含んではいない。日本に暮す外国人も入ってはいない。」

阿部氏は最近の著書「日本社会で生きるということ」 の中でも更に詳しく述べられている。

「ヨーロッパ流の「個人意識」が、日本でもあるかのごとき幻想が、未だにはびこっておるわけですが、実際は、ヨーロッパ流の「個人」というものを、日本で実現するには千年のタイムラグがあり、状況の違いもあります。それよりも、日本の今「世間」のなかにある「個人」というものが、「世間」と「個」との領域を、もう少しうまく設定しながら、「個」の領域を拡げていく。「世間」の解体を、多少もたらすわけですが、「個」の領域を広げていく必要があるだろう、と思うんですね。そうしませんと、いろんな面でこれからの国際社会ではやっていけない。」

日本の個人意識は極表面的なものであり、対社会的なものであると筆者は考えている。 阿部氏の言う処の「ヨーロッパ流の『個人意識』」の幻想がはびこっているという事も、只真の個人主義を理解していない人間が、個性だ、個人の自由だと権利だけを主張していると受け止めていて、これが果して幻想とは言えどもヨーロッパ流かどうかも疑わしいと思っている。 筆者が言いたいのは、真の意味での「個」が充分理解されていないうちに、阿部氏の言われる様に「『個』の領域拡げていく」のは非常に危険だという事である。 筆者の考える個とは、真理の探究の過程で生じる全能性或は絶対性の対局に生まれる個であり、全との対比に於ける個、individual=indivisibleとしての個以外の何物でもない。 これはヨーロッパで先に生まれたかも知れないが、近代的個の概念であり、普遍的なものと思いたい。

個人主義は、聖と俗が分離し、神と個人が一対一で対峙して初めて成立すると言われ、これが所謂宗教的個人主義として言われ続けている。 経済的個人主義、共和主義的個人主義も基本的な宗教的個人主義から派生するものであり、基本的な個人主義が欠如する処に副次的に派生する現象だけ取り入れれば必ずや無理が生じるものである。 然し乍ら、ととえ淵源はそこに見い出されるとしても、二十一世紀になんなんとする現代に於て論点を常に一神論対汎神論の二分法に持ち込むのは時代逆行的であり問題解決にはいつ迄経っても繋がらず、ロジカルに分析し科学的に仕組を解明する姿勢が望まれるのである。 何かと言うと一神論と汎神論を持ち出し、絶対的な違いばかり強調しようとする。 これでは諦観ばかり先きにたって、問題を解決したくないととられても仕方が無い。 個人主義の前に個の確立=覚醒がある。真理の探究の過程に於て個の確立=覚醒は生じ、個人主義に帰結する。 個人主義は真理の探究の当然の帰結で、覚醒した個人の集合で形成された社会の行き着く主義主張(イズム)であり、何よりも個の確立=覚醒が先に来るべきものである。 ここで個の確立或いは覚醒と言うのは、自分を限り無く客観視或いは相対化して「個」の概念を導き出すという哲学的思考の事であり、所謂「内省」の事である。 宗教の力を借りなければ眼を内側に向けられない、宗教に頼る事無く論理的に眼を内側に向ける訓練をするのが近代に他ならないと言っても過言ではない。 この点からも日本は個人主義を採るには時期尚早の状況である。 個人主義が語られる時、未だに、自己中心主義であるとか、利己主義であるとか、否定的に捉える傾向は依然強く、少し前向きに捉えてさえも、個性の尊重だとか、個を貫くだとか、個の領域を拡げるだとか、表面的な現象面ばかり捉え、内面が論じられる事が少ない。 個の領域は個人の内側に限り無く拡がるもので、内側に貫くものであり、いずれの社会に於ても個を外側だけに貫く事は難しいのである。 個は、自己中心的なものではなく、自己求心的なものなのであり、日本人の様に、自己遠心性の強い国民には向かないのかも知れないが、日本には、自信を持って主観を語れる人間の数は未だ少なく、逆に、自己中心の人間の方がもてはやされるという、奇妙な現象さえ見られるのである。 個々人の内面が充分拡がってそれが社会に反映して初めて個人主義が生じる。 個人主義は個々人の個が確立されて、それが反映した社会の現象なのである。 個人主義は真理の探究の当然の帰結であり、選択肢の問題ではない、つまり主義主張の問題ではないのである。

阿部氏は更に、

「若い人たちは性急に「世間」を解体しないといけないと言いますが、私はそうは思いません。「世間」を解体することは難しいと思います。いずれ変型するかもしれませんが、解体は難しい。むしろ「世間」というものをもう少し意識してなかから変えていく必要がある。」

と述べる。

筆者が言いたいのは、個の領域が狭められているというのでなく、甘えの構造をなくす事により、近代文明に対応出来る個の誕生が期待出来るという事である。 戦後近代的社会システムを導入した際、日本人はそれを「建前」と「本音」を使い分ける事により温存してしまった。 これが日本の特異体質である「世間」と「社会」の二重構造及び「本音」と「建前」の元凶である。 近代的社会は建前社会だったのであり、本音は旧態依然とした「ムラ社会」だったのである。 器用な日本人は「建前」として新しい「社会」を受け入れ、「本音」である神道的「世間」を「隠れ切支丹」ならぬ「隠れ神道」として残した。 日本人が本音と建前を使い分けてでも頑に守ろうとしたのは、「天皇制」から波及する「神道的ムラ社会」いわゆる「世間」であり、何よりの原因となったのはそこにある「甘えの構造」である。それは「天皇の赤子」という言葉にも如実に表されている。

「『甘え』の構造」12 の中で土居健郎氏は下記の様に述べている。

「ともすれば閉鎖的なサークルに分割し易い日本の社会では、天皇の赤子ということ以外に万人を包摂するために適切で効果的な理念は存しなかったと考えられるのである。」

「これを要するに、日本人は甘えを理想化し、甘えの支配する世界を以て真に人間的な世界と考えたのであり、それを制度化したものこそ天皇制であったということができる。」

「しかし問題は教義の天皇制に限らない。義理人情とか報恩の思想とあるいは大和魂でも、それらが社会規制的に働いている間は、先に私が分析したようには、それらの本質が甘えの心理に存していることを認識することはできなかったのではなかろうか。天皇が神話を自ら否定し、日本国の象徴となって初めて、日本人一人一人の内心にひそむ甘えを明るみに持ちだすことが可能となったと考えられるのである。」

「甘えの精神と個人の自由とは相互に矛盾するように見えるが、そうであるとすると、明治以後の日本人が新たに西洋的な自由に接したことはひどく衝撃的な出来事であったと考えなければならない。この際もし日本人が真に個人の自由を体得できたならば、それによって彼らを悩ましていた義理人情の葛藤を超越できるかもしれないが、しかし事実はそううまくは運ばなかったようである。」

 

一般的に大人とは自己の確立された人間を指す。この「甘えの構造」が個の確立を阻んでいるのである。 筆者は基本的に個の確立を個人の覚醒と同義に捉えており、何も真の個人主義の発達が阻害されていると主張している訳ではない。 只、個人が覚醒する機会或いは大人になるチャンスが失われているという事である。 いずれにせよ、個人が真の個の確立の意味をを理解しなければ、元々全の概念も個の概念も無い所に真の個人主義の発達等期待すべくも無い。

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