日本

日本の特異体質

日本は明治維新、第二次世界大戦を契機に外国文化を吸収し続け現在に至り、様々な問題を内包しつつ二十一世紀を迎えた。 国際性を考えるには先ず固有の問題を解決しさらに普遍的な問題に取り組む姿勢が要求される。 日本は、外国文化が急激に流入した為、いつしか真善美=学問が、衣食住=社会に反映しなくなってしまったというのが小生の基本的な考えであり、これは何か方法論に間違いがあるからに相違ないと考え始めたのが、長い思惟への旅である。 ここでは我々の「特異体質」だと思われる「和魂洋才」というものに焦点を当て、「治療法」を模索してみたい。

明治維新迄、日本は世界史とは疎遠な儘独自の歴史を刻んで来た。 維新とともに近代国家の仲間入りをし、西洋の社会システムを取入れ富国強兵の名の下に軍国主義への道を歩むが、第二次世界大戦に敗れ民主主義国家として再出発を余儀無くされ、この時点から真の国際社会の一員として、人類の共通の歴史を背負う事になるのである。 然し乍ら、輸入の学問に頼り切っていた日本では当然の事ながら社会科学で遅れをとり、 柳田國男が力説した甲斐も無く共通認識を得る処迄は至らなかったのである。

「少なくともどうして敗れたかというような痛烈なる問題が起れば、それをさらに細かく見分けて行って、だんだんと具体的に、また答えられやすい形に引きなおし、そのいずれの部分もしまいには、はっきりと説明し得られるようにすること、これが精確科学といわれる自然史の方面では、もうよほど前から行われている方法であった。いわゆる文化科学の方面にばかりは、年久しい因習のしからしむところ、遺憾にもまだあまり試みられていなかったのである。」

現在でもまだ声が聞かれる様に、他国から与えられた国是に不満な国民は何とか過去の史実の中に日本固有の国是を発見しようと試みるが、日本には元々普遍性追求姿勢が無く、従って欧米型のエートスに対応出来るものを未だ見付ける事が出来ないでいる。 本来「和をもって尊しとなす」でも「汝の隣人を愛せ」でも、その何れを基本原理に採ろうともその後の哲学的思考が無ければ現在の繁栄は望むべくも無く、一朝一夕に手に入るものではない。まさに「ローマは一日にして成らず」である。

「歴史という学問は、日本ではとりわけ古くから大切にせられた学問であった。ゆえに今日の青年などが、少し突飛なことを言い出し、または西洋人の受売りでもしようとすると、慌てて老先輩は歴史を読め、歴史を読まぬからそんな事を言うのだという。」

「ところが現在のありさまでは、我々がそれを読んでみて知ることと、自分の今思い悩んでいる生存の問題とは、どう考えてみても関係がないのである。」

と、柳田國男がいみじくも言った様に、学問は社会の変化に着いて行く事が出来なかったのである。

柳田は更に、

「そんな考え方で歴史を学んでも、これを今後の政治の参考にすることすらむつかしい。いわんや個々の町村においては、もともと大事件もなければ大人物もなかったのが普通で、単に無数の微少事件の集積、何代かの無名氏の真面目な努力の綜合が、すなわち今日の共同生活をなしたのである。」

「古風な英雄伝的な研究方法では、とうていこの方面の学問を、お互いの実生活に結び付けることはできず、いつまでも勉強はお前の勝手、世間は別の途を進むという今日のありさまを、続けなければならぬのである。」

と学問と社会の齟齬を強調するのである。

国家の存立基盤は遠い過去の歴史に求めても、国是迄を社会にそぐわないものにする必要は何処にも無いという事である。 普遍性の追求というのは、人類の共通の歴史という認識からスタートするものであり、ナショナリズムを大事にしても何ら競合するものではなく、人類が勝ち得た文明を享受するからには、この共通の歴史も同時に共有し負担しなくてはならない。 現代の日本人は、数学的に解決出来る方法論に西洋のロジックを取り入れる事には何ら疑問を持たないが、いざ国家の国是となると外来のものを取り入れるのに躊躇し拒絶してしまい、出来るだけ触れないでおこうとしたり見て見ない振りをしてしまう。 又、過去の誰かが既に発言したりした歴史的事実に対しては非常に強気になるが、「普遍性追求」の様に未だ曾て経験の無い事に関してはからきし弱くなってしまう。 今世界の趨勢は既に現代の科学万能姿勢に反省する段階に入っており、未だに過去の史実或いは神話に国是を求めて半ば意地になり「人類普遍の原理」から眼を背けるのは時代逆行的と言わざるを得ない。

普遍性追求姿勢の欠如

現代の日本に於て真善美=学問が衣食住=社会に反映されないのは、一言で言って日本には元来普遍性追求の姿勢が欠如する事にあると言える。 この普遍性追求姿勢の欠如するところに、それを前提に機能する西洋のシステムを導入した為に様々な問題を惹起しているとも言える。 従って学問の目的である真理の探究でさえ自ずと枠が狭められてしまい、実証科学の枠を超える、全能性の追求と普遍性の追求という部分が曖昧なまま現在に至っているのである。 その上、戦後プラグマティズムという、功利主義或いは合理主義を取り入れた為、経済復興には非常に効果を上げたが、憲法の前文に迄謳っている所謂「人類普遍の原理」の追求は言及される事無く五十年間看過されてしまったのである。 つまり、近代文明の持つマテリアリズム的側面だけを利用し、ヒューマニズム的側面を疎かにしてしまったのである。 この人類の勝ち得た科学の発達による高度な文明は絶対者と対峙する人間の飽くなき全能性追求の結果であり、「始原の追求」無しに「利便性の追求」だけを利用するのは片手落ちとも言える。 日本人の自己植民型性質もここに原因があるのではないかと思われる。 つまり「安保只乗り」ならぬ「国是只乗り」の姿勢、国是が曖昧な儘社会システムが稼動している為に、国民は拠り所の無い儘、或いは個人が目的意識の希薄な儘不安に駆られながら生活する事を余儀無くされているのである。 "Proceed at your own risk"という自由世界のルールと「赤信号、皆で渡れば恐く無い」というムラ社会のギャグにいみじくも表されている違いは、「個」の欠除である。

「日本では島国でなければ起らない現象がいくつかあった。いつでもあの人たちにまかせておけば、われわれのために悪いようなことはしてくれないだろうということから出発して、それとなく世の中の大勢をながめておって、皆が進む方向についていきさえすれば安全だという考え方が非常に強かった。いってみれば、魚や渡り鳥のように、群れに従う性質の非常に強い国なのである。そのために相手が理解しようがすまいがむとんじゃくに、自分の偉大さを誇示するために難解なことばをもって、ややすぐれた者が、ややすぐれない者を率いる形になっておったのでは、真の民主政治がいつまでたってもできる気づかいはないのである。」

と、柳田國男も言う様に、これが危険負担の回避という、所謂「安保只乗り」という言葉でも表されている日本人の当事者意識の欠除でもある。 Safety & Securityという「安心欲求」をどう解決するかが同時に日本人の「帰属欲求」をも解決する鍵でもある。 これは即ち「国是」と「社会」は言い換えれば「信仰」と「世間」という言葉に置き換えられるからである。 「国是」という言葉が過激過ぎるならば「国のいしずえ」でもいいだろう。 これが柳田國男が生涯を賭けて追究したものでもある。  果して「個人主義」、「民主主義」、「自由主義」なんて代物は所詮西洋からもたらされた「建前論」に過ぎないのだろうか?その場しのぎの借り物であっても良いのだろうか? 学校で習った事が社会で通用しない、つまり真・善・美が衣・食・住に反映しない、筆者の言う処の「和魂洋才」の弊害、つまるところ日本の社会では学問は建前であり、社会をより良くするという目的意識が非常に希薄なのである。 前にも書いたが、精神性(善・美)をそのままにして、真のみを挿げ替える事は無理が生じる。 ましてや、真の一部である才(技術)のみを利用するのはもってのほかなのである。

柳田國男の時代に、

「私は学校にいる時分、外国の本で経済学を教えられた人間だが、今日に至るまでも実は本と自分の生活とが、はだはだになって繋ぎ合されぬのに困っている。」
と言うのはまだ理解出来るが、今日に至ってもその弊害が見受けられるというのは大きな問題である。 時代は進み二十一世紀を迎え、最早後戻りは許されず、この憲法の基本原理でもある「人類普遍の原理」の追求無しに国際社会に合流するのには無理があり、先ず日本の特異体質或いは置かれている立場を認識し、「個人」、「自由」ひいては「個人」の「自由」とは何なのか考え「自由」な「個人」が一人悩む事の無い様、「個人」のレベルで何が出来るかを考える事は重要である。 勿論国是を"IN GOD WE TRUST'にする訳にも行かないが、せめてそこから括り出された「自由」、「平等」、「博愛」という「人類普遍の原理」を前面に出した憲法の解釈が出来ないものなのか、「始原の追求」に至る形而上学的解釈を教育に盛り込めないものかを考える事は必要である。

最近学級崩壊が盛んに話題になっている。これは個性の尊重を個の確立というものを深く考えないで取り入れたからに相違無く、個の確立を伴わない個性の尊重は甘えと我が儘を助長するだけであるという見本である。 個性の尊重とは、自分を限り無く客観視する事によって導き出される個人という概念から生まれた普遍性追求姿勢の賜物であり、個の確立を大前提に成り立つものなのである。 又近頃、セクハラが法律で規制される事に決定したらしいが、これとて本来普遍性の追求というものからロジカルに導き出した結果で、年令を超え、性別を超えるという不可能な事を可能にしようとする論理的な考え方に基付いているのである。 以前ウーマン・リブというのが流行った事がある。思い出してみれば、日本で過渡期を迎えていた頃本家本元のアメリカでは既に末期的状況にあり、性差別を極力排除しようとする実に合理的な考え方に変化しつつあったのである。 この基本的な考え方を学ぶ事無く、SEXとGENDERの違いすら未だ満足に理解していないという節がある日本人に果して身に付ける事が出来るかどうか甚だ疑問である。 年令を超え、性別を超えという考え方の先には国籍を超えという大きな問題を含んでいる事を忘れてはならないのである。 この様に近代文明の基本的原理を理解しない儘安易に現象面だけ捉え、これが世界の趨勢であると言わんばかりに対症療法を続ける限り日本は常に後手に回り、アイデンティティー・クライシスから逃れる事が出来ないのである。

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